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【10】-1

 言葉で言い尽くせないほど、母には感謝している。  特別なことなど何もできない千春を女手一つで大学まで出してくれた。母から受け取ったたくさんの愛情と期待に応えられるように、しっかりした社会人になりたかった。できるだけ安定した企業に就職して、母を安心させたいと思っていた。  その気持ちは今も同じだ。  有栖川は立派な人物だ。地位や容姿や経済力など、誰にでもわかる部分が優れているだけでなく、人として尊敬できる。広い見識を持ち、仕事熱心で、それでいて決して偉ぶらず、公正で思いやり深い。  愛されて嫁ぐのが男の幸せだと、金井がわけのわからないことを言った。  有栖川から恋人に望まれていることは話していないので、社長直々の採用の誘いを受けろということだろう。  その金井から、一度きちんと話をしてこいと強く背中を押されて、千春は満開の桜を横目に見ながら、オフィス街の真ん中に建つ銀色のビルの前に来ていた。  千春にもわかっている。  わかっているつもりだ。  もうすく結婚する男を想い続け、就職先も決まらないまま生きてゆくより、地位も名誉も財産もあり、愛情と安定した仕事の両方を与えてくれる男の手を取るほうがずっといい。  それが正しい選択だ。  十人いたら十人が、百人いたら百人が、同じ答えを選ぶだろう。  有栖川の申し出を受け、『ラ・ボナヴィータ』の社員になり、何の憂いもない楽園に住んで、幸福な人生を生きる。  それが答え。  正面玄関を抜けると、サンドベージュの石の床が美しいモダンなロビーが広がっていた。黒と茶の大きな格子がアクセントになった落ち着いた壁を背に、受付に女性が一人座っている。名前を告げると、その人は廊下の奥にある社長室専用のエレベーターに千春を案内した。  選ばれた者にだけ許された黄金の箱。その箱に、千春は一人で乗り込んだ。  磨き抜かれた壁面に、慣れないスーツを着た千春自身が写っていた。ネクタイを締めて(かしこ)まる姿は、やはりどこかちぐはぐで、高校時代の制服姿を思い出す。  自分を見つめ返す目が、静かに問いかける。  本当にいいんだな、と。  千春は目を伏せた。心はもう決まっている。  最上階にたどり着いた箱は羽根のようにふわりと停止した。金色の扉が音もなく開き、千春は視線を上げる。  目の前に有栖川が立っていた。 「よく来たね」

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