76 / 113
【10】-2
次の間を兼ねた広いホールに降り立つ。右手は一面のガラス張りで、道路を隔てた向かい側にある真新しいビル群が、春の日差しを浴びてキラキラ輝いていた。
左手にある重厚な木目のドアは片側が開かれていた。有栖川自身が先に立って千春を室内に導く。
部屋の手前側には十人ほど座れそうなソファセット、奥に大きなデスクと別室に続くドアが二つあった。そのドアの一つを背にして秘書らしい女性が立っていた。
「少し下がっていてくれ」
有栖川の言葉に、女性は軽く頭を下げてドアの向こう側に消えた。
「連絡をくれて、嬉しいよ」
有栖川が右手を差し出す。千春は黙ってその手を見つめた。
指が長く肉の薄い大きな手。綺麗な手だ。
この手を取れば、幸せになれる。苦しみのない穏やかな日々が、千春のものになる。
誠司を忘れて……。
――本当にいいんだな。
頭の中でもう一人の自分が問い続けている。自分の選んだ答えに、本当に悔いはないのかと。
――いい。
千春はゆっくり腰を折った。
「先日のお話を……」
つややかに磨かれた黒い靴。上質なスラックスの裾は完璧な丈に整えられている。どこにも欠点のない奇跡のような人。
「……お断りしに来ました」
空調機のかすかな音が室内を流れる。指の美しい手がゆっくりと下ろされるのが視界の隅に見えた。
「なぜ……?」
「とても、ありがたいお話だと思います。でも、僕は……」
「私が、恋人になってほしいと言ったから?」
声に、寂しげな気配が滲む。顔を上げていれば気づかなかっただろう、わずかな気配だ。有栖川はきっと今も優しく微笑んでいる。
千春は黙って頭を下げていた。
ともだちにシェアしよう!