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【10】-2

 次の間を兼ねた広いホールに降り立つ。右手は一面のガラス張りで、道路を隔てた向かい側にある真新しいビル群が、春の日差しを浴びてキラキラ輝いていた。  左手にある重厚な木目のドアは片側が開かれていた。有栖川自身が先に立って千春を室内に導く。  部屋の手前側には十人ほど座れそうなソファセット、奥に大きなデスクと別室に続くドアが二つあった。そのドアの一つを背にして秘書らしい女性が立っていた。 「少し下がっていてくれ」  有栖川の言葉に、女性は軽く頭を下げてドアの向こう側に消えた。 「連絡をくれて、嬉しいよ」  有栖川が右手を差し出す。千春は黙ってその手を見つめた。  指が長く肉の薄い大きな手。綺麗な手だ。  この手を取れば、幸せになれる。苦しみのない穏やかな日々が、千春のものになる。  誠司を忘れて……。  ――本当にいいんだな。  頭の中でもう一人の自分が問い続けている。自分の選んだ答えに、本当に悔いはないのかと。  ――いい。  千春はゆっくり腰を折った。 「先日のお話を……」  つややかに磨かれた黒い靴。上質なスラックスの裾は完璧な丈に整えられている。どこにも欠点のない奇跡のような人。 「……お断りしに来ました」  空調機のかすかな音が室内を流れる。指の美しい手がゆっくりと下ろされるのが視界の隅に見えた。 「なぜ……?」 「とても、ありがたいお話だと思います。でも、僕は……」 「私が、恋人になってほしいと言ったから?」  声に、寂しげな気配が滲む。顔を上げていれば気づかなかっただろう、わずかな気配だ。有栖川はきっと今も優しく微笑んでいる。  千春は黙って頭を下げていた。

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