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【10】-3

「どちらの望みも……」  有栖川の声が、どこか遠くに聞こえる。 「叶えたいと、正直に言えば、今もそう思っている。それでも」  千春の心を手に入れるために、採用の提案をしたわけではないと、誠実な人は言った。そのことはきちんと知っていてほしいと。 「二つのことは、別々に考えていいんだよ……」 「はい……」  顔を上げてと促されて、姿勢を戻す。  ソファに座るよう促されたが、千春は首を振った。 「もう、お話することは……」  有栖川が肩を落とす。 「本当に、君は……」  頑固だね。そう言って困ったように笑った。  有栖川の説得を拒める人間は、そんなに多くないだろう。無理に従わることはしないけれど、迷いがあれば必ずそこから崩される。  だから千春は迷わないと心を決めてきた。  背後に目を向け、たった今入ってきたばかりのドアを見る。  気持ちに迷いはないけれど、寂しそうな顔をしてくれる人と、これ以上向かい合っているのは辛かった。  深いため息を一つ吐いて、有栖川がドアに向かう。 「仕方がない。……私はいつも、君には敵わないようだ」  ドアを開いて、千春を先に通す。ふいに有栖川が微笑んだ。 「だが、その答えは、確かに千春くんらしいか……」  エレベーターのボタンを押し、千春と並んで扉の前に立ち、有栖川はぽつりと「残念だけどね」と呟いた。  何か言いたかった。けれど、どの言葉も違う気がして、何も言えなかった。  到着した四角い箱に千春を乗せ、最後に有栖川がこんなことを言う。 「君のような子には、もう会えないだろうな」  千春はただ首を振った。  この優しい人にふさわしい誰かは、きっといるはずだ。どうか、この人が幸せでありますようにと心から願う。  金色の箱の中に立ち、深く頭を下げた。顔を上げると、ノンフレームの眼鏡の奥から、穏やかな目が千春を見ていた。  扉が閉じる。細くなる光の中に有栖川の姿が消えてゆく。すらりとしたその姿を最後まで見ていた。  ――さよなら。  優しい夢をくれた人。  幸福に包まれた黄金の楽園。苦しみのない世界。  最高級の機材が作る静寂の中を、天界からの箱が滑るように下りてゆく。地上には今、何人の人がいるのだろう。  七十五億、その全ての人が「バカだ」と言っても、千春の答えは変わらない。

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