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 何もいらない。  どこにも行かない。  誠司のくれたぬくもりと深い罪の爪痕を胸に、何も持たず、ずっと同じ場所で生きてゆく。  銀色の建物を出ると、暮れてゆく薄紫の空を背に、満開の桜の花が白くぼんやり滲んで見えた。  大通りに面した窓から桜並木を見下ろす。葉桜に変わり始めた枝の下を、真新しいスーツに身を包んだ若者が二人、駅に向かって歩いていった。  サラリーマンの姿を見つけることは珍しくない。けれど、新社会人は意外と見分けが付くものだと、今年初めて気が付いた。  有栖川と会った翌日、店に報告に行くと、金井は『バカだな』とため息を吐いた。  呆れた様子で首を振った後、タブレットを開いてカフェのシフトを決めてゆく。 『いっそこのまま、うちの社員にでもなるか?』  金井の言葉はありがたかったけれど、千春は『いい』と首を振った。仕事に不満があるからではなく、『カナイ珈琲』に金井以外の社員は必要ないからだ。ずっとこの店で働いてきた千春は、それをよく知っている。 『アルバイトで使ってもらえたら、十分』 『そうか……。まぁ、そのうちいい仕事が見つかるかもしれないしな』 『見つかるかな』 『見つかるさ。……て言うか、どっちみち誠司が……』  言いかけて、金井が話題を変える。 『何にせよ、それまで千春がいてくれると、俺が嬉しい』  その言葉に甘えて、千春は金井の店でアルバイトを続けている。 (誠司さん……)  誠司と身体を重ねた日から一週間が過ぎていた。  その間、千春は一度も誠司に会わなかった。声も聞かず、ラインの通知は未読のままで、何度か鳴らされた自宅のチャイムにも居留守を使った。

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