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【12】-1

 翌朝、自宅のリビングで母と顔を合わせた千春は、いったいどうしてあんな誤解が生じたのかを問い質そうとした。  すると、母のほうが飛び上がって聞き返してきた。 「え? 誠司くん、結婚するの?」  千春は唖然とした。 「お母さんが、前にそう言ったんだよ」 「え? そうだっけ?」  首を傾げる母に、言葉が迷子になる。 「に、二月ごろ、奈美恵おばさんから何か聞いたんじゃないの?」 「そう言えば……、そんなこと言ってかしら? 大事な話があるって言われたし、三十歳までにどうとかってずっと言ってたから、これはもう結婚の話だろうとかなんとか……。でも、違ったみたいよ?」  軽く言われて身体から力が抜ける。 「なんで、違ったって言ってくれなかったの?」 「だって、千春、何も聞かなかったし、勘違いだったとしても誠司くんから聞いてると思うじゃない」  確かに、言われてみればそうだ。  思えば、母は母で新しい仕事のことで頭がいっぱいだっただろうし、千春が落ち込んでいるのを見ても、就職先のことで悩んでいるのだと思っただろう。  言ったことも忘れてしまった話をわざわざ訂正しなかったとしても、仕方ない。  そう。仕方ない……。  千春はふらふらと洗面所に向かった。  鏡の中の自分に問う。  ここ数週間の血を吐くような悩みはいったい何だったのかと。盛大な空回りを神様に笑われているようで、ちょっと遠い目になった。  それでも、ただの勘違いでよかった。  誠司はどこにも行かないのだ。  パジャマ代わりのスウェットをたくし上げ、身体中に散る赤い痕をチラリと見る。情事のさなかの獰猛な仕草を思い出し、頬が熱くなる。  朝からなんだと気まずくなって、慌てて顔を洗った。

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