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第36話

「わしの役目ももう終わりじゃ。お前はもう一人でも生きていけるじゃろ。婆の勝手で山に籠らせてしもうたが、お前が里で暮らしたいと思えばそうすればよい。ただな、昔の事を知っておる里のもんは後ろめたさからわしに遠慮があったが、お前に対してはそれが無い。人は時に理不尽なことをすると忘れずにおったほうがええ」 「婆様、おらはもう前ほど里の人は怖うない。けど、山の暮らしがおらは好きだし合っとると思う。嵬仁丸様もおるし」 婆様は頷いた。 「主様がどういうつもりでお前の前に姿を現されたんかわしには分からんが、きっとこれからもお前を見守ってくださるじゃろう。わしはもう安心して逝ける」 全てを話し終えた翌日、婆様は着物を2枚とも縫い上げた。大きさと形の違うそれらは、一つは佐助、もう一つは主様の物だと言う。 「さあこれで支度が済んだ。佐助、山の主様をここへ連れてきてくれんか」 逡巡する佐助に、婆様は重ねて言う。 「婆は今とてもええ心持ちなんじゃ。腹の中のもんを出し切って、思い残すこともない。さあ、早う」 確かに婆様の顔つきはさっぱりとして、憂いも翳りも見当たらない。それに食いもんはもう殆ど喉を通らず、薬草では抑えきれない痛みのせいで、ずっと眠れていないのも知っていた。 佐助は小屋の外へ出て、ここからでは届かぬだろうと思いながらもカヤクグリの鳴き真似をしてみた。しばらくすると近くの藪ががさりと揺れ、一匹の狼がこちらを窺うように顔を覗かせた。 「嵬仁丸様を呼んでくれん?」 狼は賢く、かなり人の言葉を聞き分け表情を読むと嵬仁丸は言っていたが、それを裏付けるように狼は天を仰ぐとおーんおーんと遠吠えをした。すぐさま遠くから返事が返って来る。 ほどなく、狼の姿の嵬仁丸が姿を現した。 「婆様が」 佐助がそう言っただけで、全てを察したように頷いた嵬仁丸は小屋の中に入っていった。 床に臥せたままの婆様の横に嵬仁丸が座る。 「今まで世話になった。私の頼みを聞いて佐助を立派に育ててくれたことも礼を言う」 「佐助を託されたんはもしや主様の策で、わしはまんまと嵌められたんかの」 くつくつと婆様が笑う。 「おかげで鬼にならずに済んだし、二度生きたようなもんで、礼を言うのはわしの方じゃ。もう十分じゃから、わしを痛みから楽にしてもらえんかの」 「婆様……おら、おら……」 「佐助、今一度お前には礼を言わねばな。ええ子に育ってくれたの。お前のお陰でわしは人らしく逝ける。お前はわしの二人目の倅で、孫じゃ。そのまま真っ直ぐ強う生きろ」 「おら、婆様がおらの為にしてくれたこと言うてくれたこと、全部忘れん。婆様、大好きじゃ」 うんうんと頷く婆様の目元が濡れている。初めて見る婆様の涙だった。 「そんでは、主様、よろしゅう」 嵬仁丸が片足を婆様の胸に置くと婆様は静かに目を閉じた。 「安らかに逝け」 やがて婆様の胸のあたりから淡く透ける光の球が抜け出てきた。ゆっくりゆっくり昇ってゆくそれは烏のものより幾分大きい。嵬仁丸が口を開けると、行き先が定まったようにすうっとその中へ吸い込まれていった。 ああ、婆様はもう二度と目を覚まさんし口もきかんのじゃ。 急に現実となったそれが未だ実感としてわかない。だが、穏やかな婆様の死に顔を見て、婆様は全ての苦しみや痛みから解放されたのだ、これでよかったのだと、佐助は静かに受け止めた。

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