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第72話

神を信じていない佐助は、別に参拝自体を勧めたかったわけではない。きっと百日参りをしてもおしのの目は良くはならない。 だが、途中で投げ出したせいで目が見えなくなったとこの先おしのが悔い続けることになったら不憫だ。何より本当に何も見えなくなるならこれから自分の脚と杖だけが頼りなのだ。家に籠っているより一人で歩けるように鍛えたほうがいいに決まっている。 毎日少しずつおしのと話をするにつれ、その思いは強くなった。おしのの家は小作人で両親の他に二人の兄、一人の弟がいて暮らしは豊かではない。父親は同じ組の者や庄屋の前ではぺこぺこしている小心者だが、その鬱憤を晴らすように母とおしのには威張り散らす。おしののことは『穀潰し』、膝の悪い妻のことは『出来損ないが出来損ないを生んだ』、『ろくに田んぼの仕事もできんお前らのせいで余計に貧乏じゃ』と罵る。兄や弟はそれを見て育ったのでそれに倣っている。おしのが付き添いなどおらんと言ったわけがわかった。 だが、悪い話ばかりでもなかった。 おしのが病気をして目が悪くなった後、近所の姉さんが「おしのは手先が器用じゃから織物とか上手くなりそうじゃ」と、機織(はたお)り機など家に無かったおしののため伝手を頼って織機(おりき)を借りる算段をしてくれたり、知り合いの婆様が柄織りも教えてくれたのだそうだ。機織りが得意になったことで家の中や里の中で肩身の狭い思いをしていたのが随分ましになったとおしのは言った。 成程なあ。これが人の強みじゃなあ。 もし山の獣が視力を失ったら、それは即「死」を意味する。自分で餌も摂れぬし、何より外敵から身を守れずあっという間に餌食になってしまうだろう。 だが人は例え欠けている能力があっても、各々が出来ることをして力を補い合って生きていける。 佐助は(かね)を打つことは出来ぬが、誰かが作った鉈や鋸で小屋も建て直すことが出来た。そんな積み重ねで人は川に橋を架けたり城を建てたりもできるようになったのだろう。 日を追うごとにおしのの足取りはしっかりしたものとなってきて、佐助を安心させた。だが一方で、やはりおしのの目は良くなる兆しはなく、むしろ視界の暗さが増しているようで、何といって励ましてやればよいのか途方に暮れた。 百日参りをやり遂げても目が光を失ったとき、おしのがそれを受け入れられるのか、神を恨み憎むようにならないかも気掛かりだった。

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