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第91話

今すぐその首に腕を回して抱きしめたかったが、手が縛られたままだ。精一杯体を擦り寄せ、耳元に囁いた。 「嵬仁丸様!へましてこんげなことになってごめん。あ、人の言葉は話さんで」 先程アマツバメから、山へ向かう途中で既にこちらへ向かっていた嵬仁丸に遭遇した、もうすぐ傍まで来ていると聞いて驚いた。しかも、人目も(はばか)らず狼の姿のまま街道を疾走していたと聞き仰天したのだ。嵬仁丸の姿が衆目に晒されてしまったのは痛いが、けた外れに大きいただの狼だと思わせておいた方が人狼だとばれるよりはましだ。 『嫌な胸騒ぎがおさまらなかった。一刻も早くお前の無事な姿を見なければと気が狂いそうだった』 そう思念で応え佐助の姿を返り見た嵬仁丸は、日差しで肌が赤く(ただ)れ血と泥に(まみ)れた無残な番の姿に、怒りでさらに毛を逆立てた。呻り声で周りを激しく威嚇しながら佐助の腕を縛っている縄を噛み千切る。 『奴らの道理に付き合わず、突然現れた獣に訳が分からぬまま生贄を攫われたかたちにした方がよい。佐助、この混乱に乗じて逃げるぞ。近くの森まで走ることはできるか』 『わかった。けどちょっとだけ待って。他の生贄の縄も解いてやらんと』 それぞれ腕を縛られたうえに3人の腰を一本の縄で繋げられていて逃げられずにいた生贄たちは、すぐ傍で倒れこんでいる。 嵬仁丸が縄を噛み切ろうと近づくと3人が怯えて暴れだしたので、佐助が必死に宥めながら縄を緩める。しかし、先程まで血の気がなくなるほどきつく結わえられていたせいで指先が思うように動かない。 「何事だ!」 詰所(つめしょ)になっていたらしい奥手の小屋から、数人の武士が飛び出してきた。皆、揃いの格好をしているから、これは代官か郡代の護衛の者たちか。 『佐助、急げ』 あと少し、あと少しで娘っ子の手を縛っている縄が解ける。 「ええか、お前さんの縄が解けたら取り敢えず3人一緒に侍たちからなるべく遠くへ逃げろ。そんで身を隠せるところに行って、残りのもんの縄も解いてやれ。まだ繋がっとるから一人ひとりが勝手に逃げようとしたら失敗するぞ。分かったな?」 三人はこくこくと頷く。「よし解けた、行け!」腕が自由になった娘は両手でもう一人の女子(おなご)と少年の肩を抱くと走り出した。 『行くぞ!』 嵬仁丸と佐助が走り出そうとすると、代官が叫んだ。 「そやつを掴まえろ!こちらの厚情に対し、散々この場を荒らした挙句、殿をも愚弄した不届き者、みすみす逃げられたとあっては沽券(こけん)にかかわる。下々の者への示しもつかん。逃すな!」 刀を抜いた侍や槍を持った者たちが行く手を阻むように回り込んだ。しかし嵬仁丸が牙を剥き激しく吠え立てると、じりじりと下がっていく。 「こ、こやつらは一体何者ですか?このような大きな狼、見たことも聞いたこともない」 「白い男も……まるで獣と通じ合うておるような……この獣はこやつを助けに来たのでは?」 侍たちの顔には一様に戸惑いと怯えとが浮かんでいる。 「そ、そ、そやつは人ならざる者に違いありませんぞ!恐らくはその獣魔の使い手。しかも先程からの振る舞い、このまま生かしておいてはきっと築城や御領主様への厄難となりましょう!成敗なさりませ!」 宮司が地べたに転がったまま、声を裏返して叫んだ。

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