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戦勝の宴

 イストウェラ城の中は質素な作りだった。システィーナの王城は、至る所に装飾品や額縁に入れられた絵画が飾られ、灯りも十分なほどの数が備えつけられていた。しかしこの城はまるで飾り気がない。どこまでも剥き出しの石壁は冷たく、廊下の灯りと灯りの間にも距離があり、夜間にはかろうじて空間の様子がわかる程度だった。  フリードが通された部屋の内装も、極限まで贅を抑えた簡素なものだった。広さだけは十分にあるが、調度品は軋む木のベッドと、窓際に机と椅子が一組あるだけ。暖炉はあるが、長らく使われていないのか埃を被っている。  フリードが敵から寝返った男であるからという訳ではなく、おそらくどの部屋も殺風景なのだろう。贅沢が嫌いというより、贅沢をする余裕がない。ほとんど王城に帰らず長年に渡り戦の前線で劣悪な環境に身を置いていたフリードにとっては、横になって眠れる場所であればどこでも同じだった。  住処となる部屋へハンに案内されるや否や、「臭いから風呂に入れ」と言われた。自分ではまったく気にならなかったが、山頂に布陣している間は当然身体の汚れを落とすことはできず、寧ろ泥と埃と汗に塗れていく一方だったので、相当な悪臭を放っていたのかもしれない。  城の一階には湯場があった。沸かした湯を汲み入れただけの大浴場があるだけだったが、久々にゆっくりと座って熱い湯に浸かると、途端に身体は疲労を思い出す。  入浴後は自室へ戻り、無精髭の生えた顎を剃った。久しぶりに見る鏡に映った人相の悪い男は、目の下の隈が酷く、もとから悪い目つきがさらに悪く見えた。  窓の外は完全に日が落ち、フリードの身体は既に休息を欲していた。昼も夕も何も口に入れていないが、今はただ横になれる場所で眠りたい。戦場では毎日二、三時間程度の仮眠しか取れていなかったし、投降後は馬での移動と野営で満足に眠れなかった。ふらふらと硬いベッドに倒れ込んだ瞬間、扉を叩く無粋な音がした。   「……」    一度目は無視をする。しかし数秒置いて再びノックされた扉を見やり、フリードはベッドから這い出て怠い身体を引き摺った。  扉を開くと、そこには前髪を後ろに撫でつけた黒髪の男が立っていた。見たことのある男だ。   「……あんたは」 「ガーランド公の参謀を務めている、ロトだ」    ガーランド軍の幕営で、ハンと一緒にカーターの隣に控えていた男だった。目線の高さはフリードとほぼ同じだが、長衣を羽織った身体はひょろりと薄い。戦場に出ることはない、文官らしい体格だ。   「参謀殿が何用だ? 俺の眠りを妨げてまで」 「それは悪かった。だがお前に来てもらいたい」 「どこへ」 「もうすぐ祝宴の間で宴が開かれる。お前も来るんだ」 「決定事項か? 断るぞ」    フリードは不機嫌を隠しもせず、ロトの誘いに対してぶっきらぼうに答えた。  敗戦続きだったガーランドの久々の戦勝を祝う酒宴だ。そんなおめでたい場所へ敵から寝返った男が行っていい筈がない。   「主君はお前の参加を望んでいる。これはお前の歓迎も兼ねているからな」 「歓迎だぁ?」    予期しない言葉に、思ったよりも大きな声が出た。冗談でも言っているつもりなのか。だが冗談だと言い出す気配はなく、至って真面目らしいことに、フリードの喉からは乾いた笑いが漏れた。   「一体、何人が俺を歓迎してくれるんだ? あの金髪のガキ……ツチラトだったか、あいつの俺を殺さんとする目を見たか? 同じ目をしている奴が他にも大勢いるだろう」    ツチラトほど憎悪を向けていなくても、今まで散々味方の兵を殺したフリードに対して良い感情を抱いている者はいないだろう。祝いの席にそんな男が登場したらどんな空気になるかぐらい想像できる。   「カーター様はお前を呼んでいる。この宴で、お前と我々との軋轢を少しでも減らしたいのだろう。それは俺も同じ考えだ」 「……その軋轢が逆に増えなきゃいいけどな」    最初だけ顔を出して、様子を見て途中で抜け出せばいい。どうせフリードの周辺で飲む者などいないだろうし、姿を消したとしても誰も気に留めない。これから主君となるカーターへの挨拶を済ませて後は撤退だ。  渋々首肯したフリードはロトとともに祝宴の間とやらへ向かうこととなった。    松明の灯りも薄暗い大広間に、十人ほどが掛けられる木のテーブルがまばらに十設置されており、武官か文官かは知らないが大勢の男たちが立って酒を酌み交わしている。己の戦功を自慢げに話す者、昔話を懐かしげに語らう者、酒の飲み比べをする者。各所から野太い笑い声と歓声が聞こえてくる。宴の席と行っても、何ら町の酒場と変わらないような雰囲気だった。  既に始まっていた戦勝の宴の場へロトと共に姿を見せると、賑やかな声に混じって、様々な感情を孕んだ視線が向けられた。ちらりと一瞥を寄こすと興味なさげに再び会話に向き直る者や、好意的でない目を向けたままフリードの動向を窺おうとしている者。突き刺さるすべての視線を受けながら「やっぱりな」とロトへ目配せをすると、曖昧な表情を浮かべていた。   ロトに促され、用意されていた場所へ収まったフリードは、不意にシスティーナの王城で開かれていた宴を思い起こした。丹念に磨かれた大理石の床が光る、煌びやかな大広間で、勝利した戦の後は必ず舞踏会を兼ねた祝宴が設けられた。ガーランドとの戦の後、フリードがわざわざシスティーナへ戻って祝宴に参加した回数は片手で数えるほどもない。王城へ帰還する兄たちを晴れ晴れと見送った後、自らが拠点としている要塞で泥のように眠るのが常だった。  母に呼び戻されて稀に参加した祝宴は酷く退屈だった。コールマンに従う貴族家の者たちが口にする、聞き飽きた賞賛や思ってもいないおべっか。それでもフリードのもとへ流れてくるのは兄たちに相手にされなかった者や、没落しかけた家の者たちばかりだったが。稀に参加したと思えば、想像以上に不愉快な夜を過ごしていた。   「フリード・コールマン殿とお見受けいたしますが」    恐らく武官だろう屈強そうな男が杯を差し出してくる。受け取ると男は軽く笑んで会釈した。   「フィリオンという家の者です。この度は我々ガーランドへの加勢、ありがたく思っております」 「ありがたく? あんたはそう思うのか」 「もちろんです。あなたは我々ガーランドの将兵の間で恐れられていた人物です。二年前の戦でしたか、たった百人で奇襲をかけられた時は、肝を冷やしました」    敵側で自分がどのように語られているのか関心はないが、少なくとも兄たちよりは、敵として厄介な相手と認識されていただろう。フィリオン家の男は真面目な性格らしく、自軍を窮地に立たせたフリードの実力を、心から喜んでいるらしかった。   「あれは苦肉の策だった。たった百人しか与えられなかったから、死ぬ気で奇襲に挑んだ。それだけの話だ」 「それでも我々に大損害を与えたことに変わりはありません。そのような優秀な人物を陣営に迎えることができたのです」 「俺はガーランドの兵士を大勢殺している。あんたみたいに歓迎する奴ばかりじゃない」    杯を傾けながらそっと辺りを見渡すと、大勢の男たちに混じって、ピリリと肌を刺すような尖った視線がある。そちらに顔を向けると、当人と視線が交錯した。  同じような年頃の者たちと集まって酒を酌み交わしているが、その深い水底の色をした瞳は暗く淀み、射殺さんとする殺意だけフリードに向けている。  復讐したいという純粋な敵意を孕んだ目から、フリードは視線を外さなかった。若さゆえの苛烈すぎる感情は生意気だった。フリードはしっかりその青年の目を見て、薄く笑ってやった。  すると彼は一瞬顔を凍り付かせ、そしてすぐに煮立つような怒気を露わにし、おもむろに動いたのだ。   「早速災いが起きそうだ」 「どうされたのですか?」 「いいや、何でも」    手に持っていた杯を置きこちらへ大股で近づいてくるツチラトを目で追っていると、視界を遮る影があった。フィリオンはその姿を認めると恭しく一礼し、「カーター様」と影の名前を呼んだ。   「酒は好きではないか? 杯が進んでいないようだが」    咎める訳でもなく言ったカーターは、葡萄酒が注がれた杯を手にしている。その後ろ、離れた場所では、主君の登場により足踏みをしているツチラトの姿があった。   「まだここで飲む気にはなれないだけだ。いつ背後から襲われるかわからねえからな。それよりあんたの方から来てくれるとは、ガーランド公」 「ガーランドの長として、お前を歓迎せねばならん」    老獪に笑むと、カーターは自分の杯をフリードのそれに軽くぶつけ、深い紫色の液体を飲み干した。お前も飲めと言われているようで、仕方なく杯を傾ける。酸味が強いが、後から仄かな甘みと香りが広がり、強い酒精が喉を落ちていく。コールマンで支給されたものよりは味は落ちるが、不味くはない。   「戦乱の時において、昨日の敵が今日の味方になることは珍しくはない。お前がミンガを殺したことを許すことはできないが、お前の働きには期待している」 「ミンガ……例の北征将軍の名だったか」  何度か耳にした名前だったが、フリード自身にはまるで実感のない名前だ。ここの者にとっては思い入れの深い人物なのだろうが。   「たった半年前に、お前に討ち取られた。私の右腕であり、そしてツチラトの父だ」 「散々騒ぎ立てられたな」     捕縛されてガーランドの幕営に連行された夜。カーターの前に躍り出て、フリードの死を請い願ったツチラトを思い出す。彼は今も、すぐ近くでフリードの死を望んでいる。   「彼は父を亡くしてアリューシャ家の当主になった。まだ十八だ。養子だが、父親を深く慕っていた。お前を許すには時間が必要になるだろう」 「時間、ね。一生かかるだろうよ」    フリード自身、今もなお忘れることはない。愛する者を奪われて数年経った。当時の激しい感情や深い悲しみは、正確に思い出すことはできない。だが仄暗い怒りと恐怖と空虚さが、心の奥底にひっそりと住み着いている。  ツチラトも忘れることないだろう。親を失った悲しみと、仇への憎しみを。    

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