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心を殺す

 他人と酒を酌み交わす習慣はなく、大抵は独り酒で、惰性で酒を啜るのが常だった。カーターの勧めで何度か杯を空けることになり、気づけば身体が火照っていた。  フィリオンのようにフリードに対して敵意を抱いていない者たちが数人訪れたが、酔っ払いたちの熱気に辟易し、祝宴の間を抜け廊下へ出た。直接中庭へ抜けられる廊下は、もう春の季節とはいえど吹き込む風が冷たい。北部にいた頃はもっと冷たかった。  桟橋のように中庭の方へ飛び出た部分があり、フリードはその先の木の柵へ寄りかかって風を受けた。酒で温まった身体には寒かったが、すうっと頭が冴えていくような気がする。もう少し夜風に当たったら、部屋に戻って今度こそ眠りにつこう。酒も入ったおかげで、死んだように眠れるだろう。  丸が僅かに欠けた月が、イストウェラ城の中庭を仄かに照らし出している。別段美しい草木がある訳でもなく、池に映る欠けた月をぼうっと眺めていると、フリードは不意にひとつの気配を感じ取った。   「背後から襲うのは卑怯じゃねえか」    気配に声をかけた途端、床を踏み込む音が聞こえ、フリードは肩越しに背後を見やった。月の光に煌めく銀色が見え、咄嗟に身を屈めて刃を避ける。やや距離を取って見据えたのは、想像した通りの相手だった。   「主君の命に逆らうつもりなのか?」    短剣を手にしたツチラトが、その鋭い切っ先をフリードに向けて佇んでいた。酒のせいで顔はやや赤く染まっていたが、足取りはしっかりしている。目が据わっているのは恐らく酒のせいではなく、堪えきれない憎しみのせいなのだろう。     「主君の命より家の名誉をとるのか」 「……家の名誉だと?」    低く呟き、ツチラトは再び短剣を振り上げた。興奮しているツチラトの攻撃は大振りで見切りやすく、躱すのは戦場での一騎打ちより遥かに簡単だった。  ひらりと余裕で攻撃を避けるフリードに、威嚇する犬のように鼻梁に皺を寄せたツチラトが低く呻く。   「家の名誉なんか関係ない。俺は父上の仇を討つ、それだけだ」 「お前に俺が殺せると思うのか」 「今なら、殺せる」  純粋で、明確な殺意。いっそ清々しいほどのそれを向けられたのは、この青年が初めてだ。  実力や経験の差など関係なく、絶対に殺してやろうという強い気概が感じられる。荒々しく拙い剣捌きに反して意志だけは鋭く研ぎ澄まされ、強烈な執念が切っ先に宿っていた。  ツチラトが横に薙いだ短剣を避けたフリードは、一瞬 酩酊感を覚えた。目の前がぐにゃりと歪み、足元がふらつく。それはすぐに消えたが、体勢を整えようと柵を掴んだ時、頬に鋭い痛みを感じた。手で触れると指先は血液でねっとりと濡れた。   「クソガキが」 「丸腰だからといって情けはかけない。卑怯とでも何とでも言え」    生意気な言い草に、口角がひくりと震える。それならばフリードも、十も年下の小僧を相手に手加減などする必要はないだろう。酒で酔ったところを殺されるなど真っ平ごめんだった。  指先についた血を舐めとり、目を血走らせた青年を見据えた。憤怒もあらわに振り下ろした短剣を、フリードは避けなかった。獣の目を凝らし、銀色に輝く刃を右手で掴み取る。   「何……っ」    ツチラトの動揺を見逃さなかった。深く切れた掌から血が滴り落ちるのも構わず、フリードは短剣を握り込む手に力を込めた。ツチラトがそれを引き抜く前に、至近距離にある相手の襟首を左手で掴み、ぐいと引っ張る。ふらついた相手の足元に足をかけて逆にぐっと襟首を押しやると、ツチラトの身体は後ろへと傾いた。  ダァン! と大きな音が、喧噪から離れた月夜に響く。押し倒されたツチラトの上に馬乗りになったフリードは、襟首を離した左手で相手の手首を掴み上げた。倒れた衝撃でツチラトが手放した短剣は、柄を持ち主に向けたままフリードの右手の中にある。褐色の皮膚から溢れる血が刃を伝い、鍔へと溜まって真下のツチラトの頬へポタリと滴った。   「まだ俺を殺すか?」    短剣を掴み直し、自らの血に濡れた刃をツチラトの首へ押し当てる。ぬるりと滑る刃は、うっかりすると青年の白い喉元を容易に切り裂いてしまいそうだ。   「殺せ……」    先程までの覇気もどこへやら、ツチラトは喉から絞り出すようにして苦く呟いた。   「何だと?」 「……父上を殺したように、俺も殺せ」    ぼそぼそと低く言葉を紡ぐツチラトを見下ろす。月光が照らす細い金糸が輝いている。口を閉じて黙っていればこの青年は美しい。   「お前は俺を殺したいだろうがな、俺にはお前を殺す理由がない。殺したところで何の得もない」    ツチラトの喉元に当てていた短剣を離し、乱暴にその辺に放り投げた。カラン、という金属音とともに血液の飛沫が床に赤を描く。  手首を離して拘束を解いても、ツチラトに暴れたり抵抗する素振りはなかった。   「馬鹿な真似はやめろ。厳しい罰則が欲しいのか」 「罰則なんか、どうってことない。お前を殺せるのなら、牢に入れられても、死罪になってもいい」 「それほどまで父親の仇を討ちたいか」    頑ななツチラトに問いかけると、彼は至極純粋な声で「お前なんかにはわからないだろ」と呟いた。   「父を殺した男が下り、仇討ちも許されず、その憎い仇と同じ陣営にいなければならないなんて、俺には耐えられない。親の仇がのうのうと生きているのを見るくらいなら、いっそ死んだ方がましだ……」     ツチラトの長い睫に縁取られた目から滲み出る涙が、細く線を作って落ちていく。憤怒の炎は消え、碧い瞳には投げやりで厭世的な色が見える。すべてがどうでもいいと語っていた。  この美しい青年は、武人であった父親に深く愛されて育ったのだろう。父親ばかりか、主君や叔父に見守られながら、愛情に不自由することなく生きてきたのだろう。フリードとはまるで違う。  父親を失った半年前から、不意に湧き上がる激情と昇華できない悲しみを同時に抱えている。   「俺にもぶっ殺したい男はいるが、お前の気持ちはわからん。忍耐も知らねえガキのことなんか」 「何だと……」 「主君のガーランド公が、俺を有益だと判断し生かした。自分の私情を持ち込んで、忠誠を誓った主君に逆らうのは臣下のすることじゃない。聞き分けのない子どものすることだろう」    冷酷に言い放つと、ツチラトはその薄い唇を震わせながらフリードを睨み上げた。しかし言葉が漏れることはなく、涙を浮かべた瞳では少しの迫力もない。   「お前らにとって実際に俺が有益なのかはまだわからんがな。お前の癇癪ひとつのせいでガーランドに敗北をもたらす可能性もある」    親を失ったばかりの十八の青年に、仇討ちの悲願を癇癪と称するのは酷かとも思った。殺したいと願う仇自身であるフリードが諭す内容でもない。しかしツチラトの行為が愚かであることも確かなのだ。 「お前はそれを理解していて、俺を殺そうとしたのか」    冷静に問いを落とすと、ツチラトは目元を両腕で覆って唇を戦かせた。   「心を殺して生きろって言うのか……」    今にも死んでしまいそうな、苦しみを溜めた呻き声だった。   「お前を殺してやりたい……殺したところで父上が戻る訳でもないのに……殺さないと、収まりがつかないんだ……」    自分ではとても処理しきれない葛藤を抱えた青年の嘆きに見覚えのある姿が重なり、背中がぞわりと粟だった。寒々しい感覚に、思わず喉から乾いた笑いが漏れた。   「――ツチラト!」    焦燥が滲んだ男の叫び声が聞こえ、フリードは声の方向へ振り向いた。  

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