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人狼

     武器庫の外に出ると、ちょうど馬に騎乗した主君が数人の従士を連れて訓練場へ向かっているのが遠目に見えた。練兵を行っていた隊の兵士たちは装備を解き、各隊ごとに整列している。訓練は終わったらしい。   「決闘は、兵士たちが訓練していたここで?」 「そうだ。彼らはもうすぐ昼餉の時間だが、おそらく多くの者がグナイアスとお前の決闘を見ていくだろう。特にアリューシャ家の兵たちは見逃すことなどできまい」    つまり、アリューシャ家に肩入れする者たちに囲まれた環境でアリューシャ家の男と刃を交えるということだ。   「最高の舞台だな」 「皆がお前の死を願うだろう」 「あんた以外は」    ロトが複雑そうな表情を浮かべる。   「あんたはどっちも応援しねえ。俺の死体が転がった時、足蹴にせず葬ってくれそうなのはあんただけだ」 「ガーランド公が厚く葬るって言っただろう」    馬の荒息が主君の到着を教える。馬から降りたカーターに、グナイアスは兜を脇に抱えたまま頭を下げた。ツチラトや従士たちも、胸に手を当て一礼する。フリードが槍を地に突き刺したまま突っ立っていると、ロトに強引に後頭部を掴まれ軽く頭を下げた。   「お前の主君だ。この先ずっとか、数十分後までか、どちらかはわからないが」 「了解」    短く返答して顔を上げると、カーターは決闘に臨むふたりの顔を渋い表情で交互に見た。そして簡潔に「健闘を祈る」と。    訓練場の土の上に直径三十メートルほどの円が描かれ、一定の距離を置いてガーランド家の御旗が立てられた。赤い牡鹿の家紋だ。フリードとグナイアスは即席で作られた決闘場の中に足を踏み入れた。  円より離れた地では訓練を解散した兵たちが疎らに残ってこちらの様子を遠巻きに窺い、外周では長椅子に腰掛けたカーター、ツチラト、ロトが開始を待っている。カーターもロトも、えも言われぬ渋い表情をしていたが、ツチラトに限ってはもはや顔色を失い、もとから白い顔が青くなっている。叔父の身を案じて弱気になっているらしい。  フリードとは円の対極の位置についたグナイアスが、太陽の光に鈍く光る兜を被る。赤い鷲が描かれた盾と剣を両手に持つ彼に、フリードは大声で問いかけた。   「随分仰々しい格好だな。この前の戦では兜なんか着けてなかっただろ」    目元まで覆う兜の男が、やや間を置いて返答を寄こした。   「あの時は必要なかった。敵兵の士気は低かったし、貴様は脅威じゃなかった」  「今は脅威か?」 「少なくともあの時よりは。死に際し追い詰められた狼は何をするかわからん」    グナイアスの挑発の言葉に、フリードは愉快げに唇の端を吊り上げ、男に向けて叫んだ。   「それはお前も同じだな」    ゴォン、ゴォン、と。低く重々しい鐘の音が城から鳴り響く。正午の合図だ。  鐘が鳴り止むのを待たずして、フリードは槍を構え相手との間合いを詰めた。グナイアスも警戒しながら慎重ににじり寄る。十回目の鐘の音が止んだ時、ふたりの一合は初めて交わされた。  空気を裂いて振り下ろされたグナイアスの刃を、得物の柄で受け止める。長身のフリードよりもさらに背丈のあるグナイアスは、フリードに負けず劣らず大柄の身体で、その図体から繰り出される一撃はやはり重量があった。硬い金属音とともに腕に痺れが走った。だが膂力ではフリードも劣っていない。  相手の体重がかかった剣を押し返し、薙いで弾き返す。槍の尖端がグナイアスの銀の甲冑を掠り、高く耳障りな音が鳴った。  軽装のフリードに対して、相手はあらゆる刃を防ぐ甲冑を着込んでいる。決闘に勝利するためには、防御のない関節に狙いを定めるしかない。   「そんな重装備で動きづらくないか? 特にそのでけえ盾は」 「貴様の言葉には耳を貸さない。話しかけるな」    ぴしゃりと一刀両断される。下から切り上げる剣を避け得物を突き出すが、鋭い尖端は硬い盾によって阻まれる。上からの切り返しを避け、やや間合いを取った。  牽制は十分だろう。時間を引き延ばしても互いに利はないことは承知している。隙を見極め、早々に決着をつけるのが賢明だ。  それから数合打ち合った。隙をつこうと槍を突き出すと相手の剣と盾に阻まれ、相手の剣が身体を切りつけようとすると咄嗟に長い得物を振り回し防御した。刃と刃が衝突することはあっても、互いの身体に傷をつけることはない。実力はおよそ互角、決定打はなく、どちらかが一瞬でも気を抜けば均衡は崩れる。攻撃範囲はこちらが広い筈だが、相手はフリードの攻撃を見切り素早く回避する。歴戦の武人の勘というものか。  緊迫した空気の中、互いに振り下ろした得物が火花を散らしてぶつかった。   「さすが、あのガキとは立ち回りが違う」    鍔迫り合いの中、フリードが放った言葉に反応はなかった。グナイアスの真横に引き結んだ口は微動だにしない。やはりお喋りをするつもりはないようだ。  代わりに重い盾がフリードの身体の側面を襲った。不意に仰け反ったところへ、グナイアスが甲冑で覆われた身体をぶつけてきた。弾き飛ばされたフリードが身体の違和感を感じたのは、間合いを取って体勢を立ち直そうとした時だった。   「――っ」     その違和感には何度も覚えがあったが、その度に「こんな感じだったか」と、初めて経験したような気分になる。時機の悪い突然のそれに、フリードは苛立ちを覚えた。  こんな時に、最悪だ。   「くそ……」    下腹がズキズキと重い疼痛に苛まれ始めた。一定間隔を置いて訪れる、痛みとも不快感ともとれるそれは、呻きを上げるほどでないにせよフリードの意識を戦闘から奪うには十分だった。    「ぐっ……」     グナイアスが横に薙いだ一閃を受けるのが遅れた。もう少し遅ければ身体から血が吹き出していただろう。こめかみから汗が伝うのを感じる。それからは防戦だった。  重い甲冑をものともせず、グナイアスは間髪を置かずに刃を叩き込んでくる。一撃一撃に膂力と恨みのこもった攻撃を得物で受けるのが精一杯で、反撃の余地が見つからない。下腹の不快感も消えない。この疼痛はいつも始まるとしばらく引かなかった。  このままではいずれグナイアスの腕力に押し負けてしまう。例え相手に隙がないとしてもどこかで反撃しなければ最終的に首が飛ぶのは自分だ。  敗北を避けたいフリードは、流石に打ちっ放しでやや動きの鈍ったグナイアスの振りかぶる剣を避け、持てる力で相手の盾を突いた。よろめいた相手の身体に素早く蹴りを入れ、鎧から見えた肘の内側に狙いを定めようとした――が、グナイアスが体勢を整えるのは思ったよりも早かった。得物の尖端を絡め取られ、フリードが気づいた時には盾で突き飛ばされた。  すぐにひと太刀が襲う。無意識に腹を庇うように上体が縮こまる。グナイアスの振り上げた剣先がフリードの肩を斬り、自分の身体から血が吹くのが見えた。   「思ったよりもずっと腕が立つじゃねえか」    後方に退避しながらフリードは唇の端を吊り上げた。息も荒く呟いた言葉は相手に届いたらしく、グナイアスは間合いを詰めながら言った。   「貴様は思ったよりも大したことはない」    グナイアスも息を切らせていたが、それは疲れからくるものの他に、敵を追い詰めた高揚感が表れていた。   「少し調子が悪くてな。昨夜は掌を深く切ったし」 「人狼は言い訳をするのが得意か」    不愉快だと露骨に表しながら、グナイアスが再び剣を打ちつけてきた。肩に負った切創のせいか、下腹を苛む疼痛のせいか、フリードの額から冷たい汗が伝って顎まで落ちる。こちらの身体の事情などグナイアスにはまったく関係のないことだ。  不意に周囲の様子が視界に入る。グナイアスの優勢に拳を振るいながら遠巻きに観戦するアリューシャ家の兵たち。席から立ち上がり決闘の次第を見守るツチラトの姿。  フリードが敵と憎む相手は彼らと同じ筈なのに。こんな場所で死んでしまっては父や兄たちを討つのもおろか、会うことさえできないだろう。彼らの思惑通りに、ガーランドの手で敵として殺されるのはごめんだ。   「貴様も長くは苦しみたくないだろう」    そろそろ終わりにするぞ、とグナイアスが押し込んだ一撃は、今までのものよりも一等重い。そう感じるのは彼から発せられる気概のためであり、身体の不調に弱まった力のためでもある。  押し負ける。そう思った瞬間、刃を受けた得物が手から弾かれて離れていった。数メートル離れた地面に刺さった槍を取りに行く猶予はない。刃が首に向かって振り落とされる――。    突然、グナイアスの振り落とす剣がおそろしくゆっくりに見えた。   「何……っ」    焦燥の声を上げたのはグナイアスだった。フリードから間合いを取った彼の手には既に剣は握られておらず、ややあって決闘場の円のすぐ内側に刺さった。兵士たちからどよめきの声が上がる。  盾を構え警戒するグナイアスを見据えたフリードの視界は、赤黒く点滅していた。フリードの命を絶とうとしていた剣を弾いたのは、長く伸びた爪だ。獣のように鋭く尖った爪の硬さは、鍛えられた刃に劣らない。乾いた唇を舐めると、尖った犬歯が舌に引っかかった。  下腹の疼痛は止まないが、先程よりも身体が軽い。負傷した肩の切創は既に塞ぎかけている。グナイアスに接近すると、彼は盾を武器のように振りかぶった。   「狼が……!」    重厚な金属の盾は地面に突き刺さった。グナイアスの背後に回ったフリードは、防護されていない背中と腰の繋ぎ目へ爪を突き立てた。  低い悶絶が響き渡る。仰け反るグナイアスを蹴りつけ、地面へ俯せに押し倒した。背中に乗り上げたフリードは男の兜を取り去って放り投げ、藍色の前髪を鷲掴んで上を向かせた。    この男を殺せ。  自身の身の内の獣性が叫んでいる。そうでなくても殺すつもりでいたのだ。フリードは刃の爪をグナイアスの喉元に当てた。   「晴れてお前は、ガーランドの一員だ」    痰の絡んだ声でグナイアスが皮肉げに呻く。殺せ、とやっと耳に届くような小さな声で呟いたのを聞いて、フリードは喉を切り裂こうと皮膚に当たる爪をぐっと押しつけた――が。   「……!?」    突如、身体の力が抜ける。  喉元を捉えた手と、グナイアスの髪の毛を掴んだ手が震え、ぼたりと落ちる。見ていた赤黒い景色がぐらりと揺れ、フリードの身体は地面に伏した。激しい戦闘で舞った粉塵が、口の中に入り込む。  上体を起こそうとしても身体に力が入らない。指先ひとつ動かせないのだ。  唯一動く眼球で見上げると、フリードを見るグナイアスの隻眼が動揺に揺れていた。そして何かを察したように周囲を見渡す。  疼痛以外に身体に違和感があった。それに気づいたのは、立ち上がったグナイアスがどこかへ向けて言葉を叫んでいるのが見えてからだったが、耳鳴りが酷くてその内容はわからない。聞こえるのは自分の獣じみた荒い息づかいだけだった。  項に感じる、針で刺されたような痛みと、痺れ。何かを打たれたのだと知った時には、フリードの意識は暗く沈み始めていた。  最悪の最後だ。    

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