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謝罪

   目の前で愛しい人が微笑んでいた。  彼女は白くたおやかな腕を伸ばしてフリードの頬を両手で包み込んだ。温かく柔らかで、ところどころにマメのできた、フリードの大好きな手だ。   「気をつけて行ってくださいね」    低く落ち着いた、抱擁するような優しい声。彼女はフリードの頬に唇を寄せ、フリードは彼女の赤毛の頭をそっと撫でた。   「あなたの帰りを待っていますから」    彼女の声には今生の別れを惜しむような切実な音色があった。   「まるでこれが最後みたいだ」 「私はいつも今日が最後の日と思いながら過ごしています。決して悔いを残さぬよう、全力で惜しむのです」    いつ死ぬかわかりませんから。そう囁いて、彼女の温かな頬は離れていく。 「あの時もっと伝えておけば、話しておけばと、後悔したくはないでしょう?」    彼女が柔和に微笑む。しかしその表情はすぐに靄がかかったようにぼやけて見えなくなってしまった。彼女の目は何色だったか、鼻の形は、唇の血色は、突然わからなくなってしまう。   「あなたは必ず帰ってくると、いつも信じています」    彼女の言葉通り、フリードはその時も帰ってきた。だが彼女は待っていなかったのだ。       意識がゆっくりと覚醒した。  柔らかいベッドの上に横たわっていた。閉じた瞼にかかる日が温かく、日中だということがわかる。瞼を震わせてゆっくり目を開けると、一瞬視界が白くなったが、すぐに部屋の様相がわかるようになった。  清潔感のある白い部屋。ベッドのすぐ横のテーブルの上には薄い小鉢や液体の入った小瓶が置かれている。強い酒精の匂いがした。   「目が覚めたか」    部屋の戸口に、長い黒髪の女が立っていた。相変わらず露出の多い、薄手の白いドレスを纏っている。彼女はフリードが横たわるベッドに近寄り、フリードの額から何かを取り去った。濡らした布だ。   「熱はもう下がってるな」 「俺は熱を出していたのか」    喉から絞り出した声はしゃがれていた。咳き込むとハンが水差しを口元へ宛がってくれる。注ぎ込まれる冷たい水を嚥下すると、身体の内側に軽い寒気が走った。   「熱を上げて三日も寝込んでいたんだ。今日目を覚まさなければもう駄目かと思った」 「三日……」    呟いてフリードは意識の終わりを思い起こそうとした。下腹の疼痛は、何もなかったように収まっている。ただ、項に麻痺のような違和感がまだあった。    「あんたは毒針を刺されて気絶したようだ。ここに運び込まれた時には顔色も真っ青で、息も止まりそうだった」 「なぜ」 「なぜ刺されたのかってことか? それともなぜ生きてるのかってことか? いや、生かされているのか、か?」 「その全部が知りたい」    決闘の次第も現在の状況も、覚醒したばかりのフリードは何もわからない。ただ体中が酷く怠く、首は痺れ、手足が上手く動かない。それだけが今わかる事実だ。  ハンはフリードの求めに応じベッドの端に腰掛け、肩にかかった波打つ黒髪を手で払った。   「まずはあんたとグナイアスの激闘の結果についてだ」 「俺は倒れた。なぜ奴は俺にとどめを刺さなかった」  グナイアスが立ち上がる姿は覚えている。あのあとすぐに剣を拾い、フリードの首を刎ねることもできた筈だ。   「グナイアスは義に厚い男。場外からの攻撃で倒れたあんたとの決闘を、彼は放棄したんだと」 「放棄? 正気か? 自分で望んだ、俺を殺す機会だったんだぞ」 「すべて自分の手で決着をつけられるなら、喜んであんたを殺しただろう。だがあんたはグナイアスの刃に倒れた訳じゃない」    ハンは長い黒髪を片方にまとめ、自身の首筋を指さした。   「あんたの首に刺さった針は、どこから飛んできたのかわからない。決闘を観戦していた兵士が上官を死なせたくなくてやったのではという話だが……彼らは離れた場所にいたらしいしな」 「上官を死なせたくないか、もしくは俺を殺したい奴かだ」 「そうだ。で、カーターはあんたを狙った不届き者を捜索させてるところだが、それらしい者は見つかっていない」  勝者は称え、敗者は手厚く葬る。決闘の前夜にそう宣言していたカーターの言葉を思い出す。   「決闘の勝敗はどうなったんだ」    人狼の力を引き出したフリードがグナイアスにとどめを刺すところだったが、思わぬ横槍で叶わなかったばかりか、死にそうになったのは毒針を刺されたフリードの方だった。だが生き延び、グナイアスも生きている。決闘はどちらかが死ななければ決着しない。   「フリードの勝利ということになった。邪魔が入らなければあんたがグナイアスを殺すところだったんだろう? だからアリューシャ家の奴らは、二度とあんたの命を狙わないと、主君に誓った」 「……そうか」    誰も死なず、誰もフリードを殺さない。結局は、ツチラトがフリードの命を狙い決闘が提案された宴の夜の前に逆戻りしただけだった。フリードの身の安全の保障がより強固になったというおまけがついて。  自身の実力を大勢の前で示せたことには意味があるが、随分と遠回りをして命を勝ち取った気はする。   「あいつらも気の毒にな。命を捨てる覚悟で俺に決闘を申し込んだのに、半端な結果になっちまった」 「だがおかげで死人は出なかった。アリューシャの忠義の男を亡くすことも、コールマンの重要人物を失うこともなかった」 「喪に服す手間も省かれたしな。……ところで何であんたが俺の面倒を見てる」    何となく気になっていたことを口にすると、ハンは目を瞬き「言っていなかったか」と間の抜けた声を出した。   「ガーランドの軍医だよ」 「軍医? あんたが?」 「何だ、おかしいか」    おかしいも何も、信憑性がなかった。薄手のドレスを纏い身体の線も露わに娼婦のような容姿をして、医者だとはなかなか信じがたい。だがこうして、医務室のような場所で伏せるフリードの看病をしている様子だと、彼女の自称は嘘ではないのだろう。   「身体に毒が回って死にそうだったあんたの処置をしたんだ。疑わずに感謝して欲しいものだ」 「腕はいいようだな。俺はあとどれくらいで動けるようになる」 「二日はこのままベッドから出ずに安静にした方がいい」 「二日もか。小便がしたくなったらどうすりゃいいんだ」    その時はこれを、とハンはベッドの足元から瓶を持ち上げた。口は細長く、下方は液体を溜められるよう球体になっている。用途はわかりきっていた。   「心配するな。下の面倒も見てやる」 「あんたがか!? 勘弁しろ」 「もう何度かやったぞ」  誰か男を呼んでくれと訴えた時、部屋の扉がコツコツと叩かれた。ハンが「早速代わりがきたか?」とおどけながら来訪者を迎えに行く。扉を開けた先に立っていたのは、意外な人物だった。   「お前……」    訪問者は病床に伏せるフリードと目が合うと、ばつが悪そうに水底の色をした目を伏せた。決闘場で見た時よりも顔色は随分とマシだ。ハンに招き入れられた彼はベッドの脇まで来ると、フリードの顔を一瞥し何度か躊躇してから薄い唇を開いた。   「……宴の夜の非礼は詫びる」    静謐な声音で呟き、ツチラトは唇を噛みしめた。  心を殺す。涙ながらに訴えた青年の震えた声が脳裏に甦る。  ここを訪れたのは自らの意志ではないのだろう。    「そして、二度とお前の命を狙わないと約束する」    ――哀れな青年だと、思った。親の仇への憎しみを捨てきれず、昇華する機会も与えられず、身の内に燻らせながら生きていかなければならない。  仇討ちを諦められるほど、戦に乱れた時代に世慣れていればよかっただろう。仇を許せるほど、父親を愛さなければよかったろうに。   「……そうか。ならしっかりその約束を守ってくれよ。俺が兄たちを討つ邪魔をしないでくれ」    寝台に伏せ身動きの取れない無様な姿のまま、フリードは青年の顔を見上げた。無理に気丈さをたたえた瞳は、少しの心ない一言ですぐにでも決壊してしまいそうだった。だがツチラトは長い睫に縁取られた目をフリードから背けず、喉を震わせながら口を開いた。   「もちろん、守る。主君に誓った。……だがお前を許した訳じゃない。お前の罪は忘れない」    それだけが唯一残された誇りだと、踵を返したツチラトの背中が語っていた。肩が震えているのを見て、ハンは彼の肩をそっと抱き寄せて一緒に部屋を出て行った。   「……可哀想な、奴だ」    親の仇も討てない、親不孝者。彼自身の双肩には重い自責の念がのしかかっている。自責だけでなく、実際にツチラトのことをそう囁く連中もガーランドの中にはいることだろう。  憐れな彼の姿は、過去の自分を見ているようだった。  可哀想な奴。  自嘲するように、もう一度呟く。だがもうフリードは、憐れな男ではなかった。このガーランドの陣営にいる限りは、望んでいた機会を得ることができる。   「あと二日は、長い」    日が差し込む窓を見上げながら、低く呟いた声は切実だった。      第一章 狼は静かに吠える 終

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