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対話
イストウェラ城の湯場は寒い。
コヨークは北のシスティーナより温暖な筈なのに、イストウェラ城の中は冷たい空気が漂っている。古い石壁の隙間から春先の風が吹き込んでいるのか、屋内にいながらも冷たい風を感じる時がある。
温かい湯の張っている湯場も同じだった。肩まで湯に浸かっていないと身体が凍えてしまいそうな寒さだ。季節が夏になればいくぶんかは和らぐのだろうが。
石を敷き詰めた床から下方に掘られた、十メートル四方ほどの決して広くない浴槽。フリードが座れば胸ほどの深さがある。ひんやりした空気の中に、立ち上った湯気が溶けていく。
およそ一週間ぶりの入浴だった。決闘で倒れてから五日はベッドから出られず、動けるようになっても一日間は入浴を禁じられた。掌や肩の切創は塞がっていたが、娼婦のような姿をした医師が、フリードの身体に回った毒を案じた。
戦場で缶詰めになった後の風呂に勝るものはないが、病に伏せた後の風呂の心地よさもまた快感だ。
どうやらイストウェラ城の湯は沸かして汲み入れたものではなく、地下から沸き出しているものらしい。透明で、打ち身や切り傷、皮膚の病に効能があるらしく、兵士の宿舎にも設けられている大浴場は大好評のようだ。
風呂を焚く人手も手間もいらないイストウェラ城の湯場は、昼夜問わず入浴可能になっている。曜日や時間帯により男女の入れ替えがあり、今日の未明から早朝にかけては男性専用になっていた。
まだ日が山の陰に隠れている頃に目を覚ましたフリードは、早速湯場へ行った。城内はまだ寝静まっており、誰かと鉢合わせることもない。一週間ほとんど寝たきりだったフリードは、連日暗い時間帯に目覚めていた。
予想通り誰もいない湯場には、石の浴槽に熱い湯が吹き出る音だけが響いていた。
「あー……」
湯に浸かると、思わず気の抜けた声が漏れ出る。自室から移動するまでに冷えた身体の末端が、じんわりと溶けていく。最高だ。
ガーランドと戦っていた頃、戦に勝利し帰還した要塞では、人ひとりがようやっと入れるくらいの狭い浴槽に沸かせた湯を汲み入れ、身体の汚れを落とした。あれでは疲れも傷も癒えなかった。システィーナの王城にはイストウェラ城よりも二倍は広い湯場があったが、湧き出た泉水ではなかったし、そもそもフリードが王都まで帰還するこも滅多になかった。
この湯場だけでもガーランドに下った価値がある。当然のようにこの場所を利用できるガーランドの貴族や将兵たちは贅沢だと思いながら湯の中で身体を伸ばしていると、不意に気配を感じた。
ひたりひたりと静かな足音が近づく方へ目を向けると、湯気の中から現れた人影はフリードの姿を認めて目を丸くし、すぐに顔を顰めた。フリードもその人物を見て思わず目を瞬く。
「よう、早いな」
目が合ってしまったので無言でいるのもと思い、当たり障りのない言葉をかけると、相手も露骨に引き返すこともできず気まずそうな表情で、フリードとは可能な限り離れた場所にさっと身体を沈ませ膝を抱えた。
「お前と鉢合わせるとはな」
「……最悪だ」
フリードの対角線に座ったツチラトは、湯に向かって悪態を落とした。
己が父を殺した青年とは、医務室で詫びられた時以来顔を見ていない。
「ハンが教えてくれたんだが、俺が意識を戻す前日にも一度訪れたそうだな。心配してくれたのか」
「そんな訳あるか。お前がくたばったか確かめに行ったんだ」
辛辣な物言いに、フリードは苦笑した。許した訳じゃない。震える声で言ったツチラトの姿が思い浮かぶ。毒が回って死んでくれればと思っていたのだろう。
「生憎だが俺は人狼でね。普通の人間より丈夫にできてる」
「半分だけだろ」
「傷の治りも回復もお前らより早い。殺す時は確実に致命傷を負わせろ」
それが許されないことと知りながらフリードが言うと、ツチラトはすぐに睨みつけてきた。屈辱、悔しさ、虚しさ。彼の負の感情を向けられるのにはもう慣れた。煽ってしまうのは生来の性だった。
「お前が人狼の力を使わなければ叔父上が勝っていた」
「だろうな」
フリードと対峙したグナイアスも「狼」と呼んでいた。一秒前とは明らかに異なる膂力、反応速度、そして姿形。刃のように鋭く伸びた爪と、尖った犬歯、獣のような顔つき。半端者といえど人狼がその力を行使したことは、グナイアス以外にも一目瞭然だったのだろう。
「公平じゃなかった」
「生まれついての人狼が、なぜ力を制限されなきゃいけない」
「生まれついての人狼?」
嗤いを含んだツチラトの声に、フリードはその顔を金色の目で睨めつけた。傷ひとつない、白い陶器のような美しい顔。
「お前、戦を知らないだろう」
「出陣したことは何度もある。お前を捕らえたのは誰だと思ってるんだ」
「どうせ後方支援がほとんどだろう。前線を知っていたら、命を懸ける戦いに公平じゃないなんて言えねえよ」
ツチラトの細身ながら程よく均等に筋肉のついた肢体は、傷ひとつない。白く滑らかで、戦場を知らない女のような肌だ。
フリードの褐色の肌には、数えきれないほどの古傷があった。生来治りは早くとも、深く負った傷は痕が残る。腕や脚にはいくつもの切創が、腰や腹には抉られたような引き攣れた痕がある。そのどれも前線で負った傷だ。硬く鋼のような筋肉に覆われた身体に、戦場の過酷さを語る証拠が残っている。
「前線まで出たのは何回だ」
「……一回」
ふて腐れた返答に、フリードは自分が殺した北征将軍がいかに息子のことを可愛がっていたのか知った。
「その一回は俺を捕らえた戦か。随分と遅い初陣だな」
「初陣じゃない」
ツチラトが声を荒げた。
「父が……前線へ出るのを許してくれなかっただけだ。本当は、お前が北の砦を攻めた時、俺もノート要塞で父とともに迎え撃つつもりだった。けど父は俺を後退させた」
フリードは、ガーランド領地であったノート要塞を攻略した時のことを思い返した。鉄壁の守りと名高いノート要塞を落とし城内へ進軍すると、予想していたより敵の数は少なかった。すでに北征将軍がいくつかの部隊を砦から撤退させていたのだ。
「俺だけじゃなく、一部の兵を残してほとんどの部隊を抜け道から南へ撤退させた。……父は、間違った判断をした」
ツチラトは湯の中で膝を抱えながら、水面に映る過去を睨んだ。
「撤退しなければ……俺も要塞に残っていれば、父上は」
「お前がいれば死ななかったとでも?」
ツチラトは水面から視線を上げて、暗い瞳でフリードを見た。
「お前が残っていれば父親は生きていたと思うか? 何で父親はお前を逃がしたと思う」
「それは……」
「北征将軍ミンガは負けを悟ったんだろう。兵士の数が多かろうが、少なかろうが。奴はお前らを撤退させ、後の戦に残すことを決めた」
「……」
「自分がいれば死なずに済んだなんて、死者への冒涜だ。奴はお前を、息子を生かしたかったんだろうよ。それこそ仇討ちでもしてくれ、ってな」
言葉を返せず押し黙るツチラトを見て、フリードはおもむろに立ち上がった。湯がばしゃりと跳ね、反対側の縁まで緩い波が押し寄せていく。フリードは浴槽から出てツチラトに背を向ける。
「大抵の親は、子どものことが可愛いもんだ。死なせないためなら何でもするさ」
「……お前も」
「あ?」
「お前の親もそうか。お前を取り戻しに、コヨークまで攻めてくるか」
青年の純粋な声に、フリードは肩越しに振り返った。すうっと心が冷えていくように感じた。イストウェラ城の湯場は寒い。湯から出た途端、冷気が身体を浸食してゆく。
「いずれはコヨークまで攻めてくるだろう。だが俺を取り戻すためじゃない」
そんなこと、考えもしないだろう。フリードはコールマン家にとって、父や兄たちにとって、駒のひとつに過ぎなかった。
「ここが落とされる前に、俺はコールマンを潰す。主君やロトが俺を上手く使ってくれるといいが」
「お前は、自分の家族を殺すことに躊躇いはないのか」
青年の問いにフリードは首を傾げ、「ないね」と呟く。せっかく温めた身体を冷やさないうちにと湯気の中を後にする背中に、憐憫を含んだ眼差しが突き刺さった。
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