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知り合い
あくまでも次兄の軍の兵士たちはフリードを丁重に扱った。腕を拘束され頭に布を被せられたとはいえ、暴行に至ることはない。フリードに抵抗する素振りがなかったからだろう。
両脇を固められたまましばらく歩かされた。その間、フリードはじっと歩数を数えていた。――内壁の内側に入った可能性が高い。
目の前で扉が開く音がし、一歩足を踏み入れればひんやりとした空気が肌を撫でた。階段を下る。先程まで聞こえていた兵士たちの喧噪や訓練の剣戟の音は一切聞こえず、フリードと兵士が石の階段を下る硬い音だけが静寂の中に響いた。
階段を下り終わり十数歩歩いた先で、被せられていた布袋が取り去られる。かび臭く湿った匂いが鼻先を突いた。真っ暗闇から解放されたフリードが佇んでいたのは、これもまた暗闇の中。壁際に点されたわずかな蝋燭の炎だけが唯一の光源だ。
「ターイン様がご帰還なさるまで、あなたにはここにいていただきます」
「上官の弟を牢に閉じ込めておくつもりか」
「申し訳ございません」
男は律儀に謝罪したが、反射的で形式的なものだということはその無表情を見ればわかる。フリードは鼻を鳴らし、分厚い鉄格子の扉を開けた男に従ってその中に入った。男は鍵をかけると連れの兵士とともに去っていく。飯は三食出るのか、と問いかけたフリードの声に返答はなく、階段上の重い扉が閉ざされる音だけが無慈悲に響いた。
「……まあ、予想の範囲内か」
狭い牢の片隅には藁が敷かれていたが、とても寝心地が良さそうには思えなかった。地下牢の中は湿っており、時折天井から滴る水滴が床に落ちる音が聞こえる。藁も湿気を含んですえた匂いがした。手錠がかけられている訳でもなく、尿瓶があるだけましなのかもしれないが。
数日中に戻ると男は言ったが、王都の次兄ターインに早馬を飛ばし、戻ってくるまでに二日。もし部隊を引き連れてくるのならもう数日はかかる。それまでに牢を抜け出し、門を開き、跳ね橋を下ろす。ひとりでやるには不可能な作戦だが、自由に動ける協力者があれば不可能ではない。
だが、今フリードにできることは何もなかった。向こうがフリードの存在に気づいてくれるまで、この暗く湿った最悪の場所で待つしかない。
いつの間にか眠りに落ちていたフリードを覚醒させたのは、地下の扉が開かれる音だった。
足音の数はひとり分。今にも口笛が聞こえてきそうな、随分と軽快な足取りだった。フリードが入る牢の前で足を止めた人物の顔を、心もとない蝋燭の炎がゆらゆらと照らし出した。
「お食事を持ってきましたよ、隊長」
灰色の髪をした男が、にやにやと軽薄そうな笑みを浮かべて格子越しにフリードを見下ろしていた。久しぶりに目にする男の姿は変わっておらず、相変わらず不愉快な顔をしているなとフリードは軽い溜め息を吐いた。
「俺が牢屋の中に入っているのが面白いか?」
「ええまあ、そうですね。滅多に見られるもんじゃありませんし」
「もしかしたらお前も入ることになるかもしれねえぞ。場合によっては」
「俺はもうごめんです」
男はその場にしゃがみ込み、手に持っていたトレイを格子と床の間にできたわずかな隙間から内側に差し入れた。金属のトレイの上には拳大ほどの乾いたパン、器に入った具のほとんどないスープが乗っている。
「しけてんな。俺は囚人じゃない」
「わざわざ監視の目をかいくぐって持ってきてやったんです、感謝ぐらいしてください」
腹は減っていた。フリードは硬くなったパンを鷲掴み、指先ほどに千切って口の中に放り込んだ。途端、口内の水分という水分が奪われてがっかりする。
「先の戦で撤退の最中に捕らえられて死んだと聞いてたんですが。あんたがノート要塞に現れて上の連中はバタバタしてます」
「その情報は歪んでるな。撤退しようとしたら兄の一部隊に退路を断たれたんで逃げられなかった、ってのが真実だ」
「ああ、やっぱり。隊長がヘマやらかして捕縛される訳ないですもんね。それで、何で殺されずにいるんです」
「投降したんだ」
味のしないパンを嫌々咀嚼するフリードを見つめ、男は目を瞬かせた。そして何の感慨もなさそうな声音で「そうですか」と呟く。それだけか、とフリードは軽く首を傾げて男を見やった。
「いやあ、別に意外でも何でもないですから。あんたならそうするだろうなと」
「なら、俺が何で単身この要塞に来たかわかるな」
「交渉して無血開城……ではないですね、明らかに」
男の緑色をした瞳が暗闇の中で愉快げに細められた。
「いいですよ、俺は何をすればいいですか?」
「流石だな、クセル」
望んだ通りの返答をする男に、フリードは唇の端を吊り上げた。やはりクセルは期待通りの男だ。昔も今も、フリードの忠実なる共犯者。
「俺はもうとっくにお前の上官でも何でもない。それでも聞いてくれるか?」
「いまさら何を。俺が隊長の頼みを断ったことがありますか?」
「細かいことを除けばないな」
「そうでしょうとも」
格子の向こうのクセルが、酷薄な笑みを浮かべて頷いた。現在の主に誓うような忠誠心は持ち合わせていないらしい。
「今の俺はあんたを消したがってる兄上の軍の一部隊長です。このノート要塞の内壁の内側にも、外側にも自由に行き来できる。大抵のことはできますよ」
「お前には俺たちの作戦に荷担してもらう」
フリードはクセルにノート要塞奪還の作戦の内容を伝えた。要塞のいる次兄の部隊の誰にも悟られずに門を開く。準備ができたら城壁の上で合図の炎を振る。跳ね橋を上げる。ガーランドの軍兵を招き入れ奇襲をかける。そのためにはフリードの身柄の拘束を解いてもらわなければならない。
「単純な作戦ですが、あんたがこの要塞の中に入ることができて、俺がいるってだけでほぼ成功したようなもんです」
「油断はするなよ。俺を警戒してる兄の信奉者だっている」
「それはそうです。早速王都へ向けて早馬が出ました。あんたの兄上が体勢を整える前にやっちまいましょう」
早速とばかりにクセルは立ち上がり、長い外套の裾を払った。フリードが見上げた共犯者の顔は、自分の上官を裏切ることになる作戦に非常に乗り気で、むしろ楽しそうにも見える。
「お前が俺に何の疑問も抱かずに従うような変人で助かる」
「当然ですよ。あんたは俺に約束しましたから。俺もあんたに約束しました。いかなる時もあんたに協力するって」
クセルは愛嬌のある顔立ちに仄暗い笑みを乗せた。フリードが立ち上がると、かつて決意を固めた男の視線が貫く。
「あんたの目的が果たされる時、俺の復讐も果たされる。そのためなら俺は何だってします」
「頼もしい限りだな。早速だが俺をこの薄汚い地下牢から出してくれるか?」
「それは無理ですね」
即答したクセルの平然とした声にフリードは眉根を寄せた。格子越しの男は咳払いし、言葉を続けた。
「夜が更ければみな寝静まるといっても、城壁の上や内壁の周辺には見張りがいる。あんたをここから堂々と連れて出る訳にはいきません」
「じゃあどうする」
「俺に任せてください、隊長」
それはお願いではなく、要求だ。クセルの言葉には力強い響きがあった。
「随分と自信満々なようだな」
「ええ、もちろん。囚われの身のあんたを連れて動くよりはよっぽどいい」
「お前ひとりでできるのか?」
「俺があんたに忠実なように、俺の部隊は俺に忠実です。隊長の期待は裏切りません」
しばし黙考し、フリードは頷いて承諾した。クセルはまたニヤニヤと軽薄な笑みを浮かべ、格子の前で踵を返す。
「俺がちゃちゃっとやってきてあげますから。俺が呼びに来るまで隊長はここで大人しくしててくださいね」
不安がない訳ではかった。が、ここはクセルに任せるしかない。フリードは溜め息を漏らし、軽快な背中を見送って藁の上に腰を下ろした。
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