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発情

 粗雑に落とされたベッドからは薄く埃が舞い上がり、わずかに黴のような匂いが立ったが、薄汚い敷布の上に寝かされたことを気に留める余裕などフリードにはなかった。  窓のない部屋は暗く、隣室から漏れていたわずかな明かりも扉が閉められると絶えた。扉から離れたクセルは戸口の蝋燭に火を灯すと、ゆらめく小さな炎に照らされながらベッドまで戻ってくる。ぼうっとする頭でフリードが仰向けに彼の姿を見上げると、クセルは傍らに佇んだまま淡々とした緑の目で見下ろした。 「薬は?」  少しざらついた男の声を聞くと背筋に震えが走る。身体に悪寒が絶えないのは熱を持っているせいだ。全身が発熱して、己の唇から漏れる吐息も熱かった。  人狼の身体が発情している。 「そんなもんねえよ」 「はい?」  クセルの眉がぴくりと跳ね上がる。ありえない、とでも言いたげな表情で口を開こうとする男を遮ってフリードは重たい口で言葉を紡いだ。 「人狼族のいないガーランドで容易に薬が手に入ると思うか」  定期的に訪れる、人狼族特有の発情期。他者との交配を欲して身体が熱を帯び、性衝動に苛まれる。発情自体を防ぐことは種の機能として不可能だが、衝動を抑え込むことは可能だ。  日常生活に支障をきたす発情の症状を軽減するため、人狼族はみな発情抑制剤を所持しているのが一般的だった。だがそれは人狼族であるコールマンが支配する領地にいればこその話。人間が治めるガーランドの領地に人狼族はおらず、抑制剤を流通させる必要は皆無。発情抑制剤を取り扱う薬師はおらず、ガーランドに投降したフリードが薬を手に入れる術はなかった。 「もともと持っていた分も、投降した際に持ち物はすべて取り上げられたからない」 「はい? これからどうやってガーランドの陣営でやっていくつもりですか?」  額に手を当てたクセルはあからさまに呆れた様子で嘆息した。少し苛立っているようにも見える。 「何でこんな戦になんか出たんです。大人しくコヨークにこもっていればよかったでしょう。いつ発情期が来るか自分でわかるんでしょ」  クセルの言う兆候は事前に表れていた。グナイアスとの決闘の最中、不意に訪れた下腹を襲う疼痛。じんじんと広がるあの不愉快な感覚があれば二週間以内に必ず発情期が訪れる。  今まさに苛まれているように、フリードは発情期が訪れると身体が震え他人の支えがなければまともに足腰も立たない。戦場で戦うなどもっての他だ。そんな厄介な症状が訪れることは予期していた。 「クソ兄の要塞を奪うチャンスなんだぞ。俺がみすみす逃す訳ねえだろ。そもそも元は俺がガーランドから獲ったものだ」 「はあ。半ば意地で出陣したんです?」 「当然だ。それに、発情期なんで城で大人しく寝てますと言って、俺を敵視する頑固者たちが許してくれる訳がない。投降してからは初めての戦闘だった。ここで逃げたら軟弱者だの穀潰しだの言う奴がいる」  戦で戦功を挙げると言えばそれはそれで信用できないだの何だのと性格のねじ曲がった老害から反感を向けられた訳だが。初戦を辞退して見くびられるよりは彼ら古参を押しきって発情のリスクを抱えながら出陣した方が、今後の立場のためにも良いと判断したのだ。  熱い吐息を零しながら釈明するフリードを見下ろし、クセルは「ああ」と何か思い至ったように間延びした声を出した。 「あの、片目の男や金髪のガキのことですか?」 「あ? ……まあ、あいつらの心象も良くないだろうしな」 「すでに良くないみたいですけど」 「そりゃそうだ。奴らの父親と兄を俺が殺したんだ」 「はあ、なるほど」  それは隊長と仲良しの俺も一緒に嫌われる訳だ、と合点がいったようにぼやくクセルから視線を外しながら、フリードは微かに震える指先を上着の留め具にかけた。熱を帯びた身体は悪寒が走るのに相反してじんわりと汗が滲む。熱いのか寒いのかもはやわからない。だがなかなか言うことの聞かない指先に苛立ち、諦めて役立たずの腕をベッドの上にぼふん、と落とした。クソ、と悪態を吐いたところでクセルがおもむろに動いた。 「失礼しますよ」  敷布の上に腰かけたクセルが身を捩ってフリードの上着の留め具に手をかける。雑な手つきでひとつひとつ外されると冷ややかな外気が肌に触れた。時折皮膚を引っ掻くクセルの指先は熱を帯びた身体には氷の冷たさで、首筋に鳥肌が立つ。 「俺のふたつ目の仕事ですね」 「はあ?」 「文句は言わないでくださいよ。薬がないなら無理矢理発散させるしかない。このまましんどいのは隊長だし、あんたがしばらく使い物にならないと連中も困るでしょう」  上着の袖がするりと抜かれ、上半身は薄いシャツ一枚になる。取り払われた布がシャツ越しに皮膚を滑る感覚さえも、ぞわぞわと身体の奥の炎を呼び起こす。 「ッ、……せいぜい三日寝込めば済む」 「純血の人狼は一週間続くんでしたっけ? どっちみちここで三日も寝込む訳にもいかないでしょうが。あんたの兄上が攻めてくるまでに少しでも軽くした方がいい。で、突っ込むのと突っ込まれるのどっちがいいですか?」 「……どっちでもいい」  躊躇いもなくあけすけに問うクセルに、フリードはほとんど投げ槍に返した。この男を相手に恥じらう必要も、恥じらうような柔な精神も持ち合わせていない。それに互いの身体はすでによく知っている。 「じゃあ、じっとしててくださいよ」 「言われなくても、今の状態でまともに抵抗なんてしねえよ」 「自分で服も脱げないんだからそりゃそうですね」  はは、と浅く笑いながらクセルはベッドの上に乗り上げフリードの身体を跨いだ。かすかな炎に照らされたフリードとは違う色の腕が伸び、薄いシャツの釦に指をかける。ゆっくりと見せつけるように外し、露になった褐色の胸の上にひんやりとした掌を置いた。しっとりと汗ばんだ肌に吸い付くように乗せられた手に、フリードは思わず吐息を漏らした。 「ヤる前に風呂を浴びたかった……」 「別に風呂でヤってもいいですけどね。それだと入浴介護になっちまう」  熱を持った身体に滲むのは発情のための汗だけではない。要塞を駆け巡って被った土埃や敵兵の血、油の不快さは布で拭っただけでは取り去ることはできなかった。  だが、薄汚れた場所で、汚い身なりで行為に及ぶのは別に初めてのことでもない。むしろこの不遜な部下の男と身体を繋げるのはそういった不潔な状況下であることの方が多かったし、その方が相応しいような気もした。

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