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scene.9 未来へ向かう君へ

 ――翌日。  俺と芝崎は朝早くサロンに向かい、この日の為だけの大切な客を待っていた。 最低限の準備は昨日のうちに芝崎がしてくれていたので、俺は自分が必要なものだけを持ち込み、後は本人の到着を待つだけだった。  ――そして。 「…おはようございます」 「航太…来てくれて、ありがとう」 「よっ。…待ってたよ」 「…父さん…。それに結真さんも…」 「こんな所だけどごめんね。さ、座って」  そう言った芝崎が航太を連れて作業台の前の椅子に促し、ヘアカット用のクロスを航太の身体に優しくかけながら、その髪にゆっくりと触れて感触を確かめる。 「航太…髪、随分伸びてるね…。たまに女の子と間違えられたりしなかった?」 「あったけど…わざとだよ。敢えて切らなかった」 「…それはどうして?」 「特に何も考えてない。…けど、気が付いたらこうなってた」 「そうなのか。…だったらこの綺麗な雰囲気を残しつつ、もう少しすっきりしたシルエットになるような感じにしてみようかな。…それでいい?」 「…分かった」 「それじゃ、まずは洗髪から始めるよ。…結真君にやってもらうけど、大丈夫?」 「…うん」 「では結真君。洗髪をお願いします」 「はい」  芝崎がそう声を掛けて俺を航太の前に立たせ、自分は一歩後ろに下がって俺の実践の様子を見る。…その顔は、完全に仕事モードだ。  此処へ来てからというもの、俺自身これまでにも何度かサロンに訪れたお客さんの洗髪をしてきたけれど、今回は芝崎の息子の航太が相手というのもあって、絶対的な失敗は出来ないと改めて心を引き締めた。   「それじゃ航太君。少し後ろに倒れてもらってもいい?」 「はい」  航太は俺の言葉に従って、自分の身体を後ろに倒した。 俺は洗髪用のクロスを彼の首に優しくかけて留めた後、その顔にタオルを被せて髪の毛以外の場所が濡れないように細心の注意を払いながらシャワーの蛇口を開いた。 「…では、始めます」  まず最初に、相手に必ず声掛けをすること。それは、サロンで働き始めた日から芝崎がずっと俺に教えてきた事だ。  いきなり何も言わずに始めるのは、相手に対して不安を与える。客商売としての基本をきちんと意識しなさい、と散々言われ続けてきた。  人付き合いの苦手な俺としては、最初の頃はこれが一番辛かった。あれから時が経ち、最近になってやっとこの一連の流れに慣れてきた。  その後は特に何のミスもなく出来るようになった。シャンプーで髪の汚れや整髪剤などの脂分を落としつつ、地肌をマッサージするように洗い流すのだが、髪質の違いによってそのマッサージのやり方も変える。堅めの髪質の人には強めに、柔らかめの人には地肌をなぜるように優しく動かすようにする。その微妙な違いを指に覚えさせなければいけないのだ。   ちなみに航太の場合は、最初に髪に触れた感触から、その髪質が柔らかめでさらっとしている感じだったので、あまり力を入れずにお湯の力で汚れを浮かせるように空気を含ませながら洗い流す方法が最善だと思った。 「…航太君。気になるところがあったら遠慮なく言ってね」  その言葉はとてもマニュアル的な感じなのだけど、理美容師は客との信頼関係が重要視されがちで、その相手の気持ちを汲み取りながら作業をしていくので、段階ごとに最低限の声掛けをしなくてはいけない。  その後も、俺は少しずつ航太に声掛けをしながら、洗髪の作業を行っていった。 「これで全て終了です。…お疲れ様でした」  最後にそう言って、再びカット台の方へ航太を案内してから座らせ、俺はそのまま芝崎と立ち位置を入れ替えてその場から離れ、後ろに下がった。ここからは、このサロンのオーナーであり、理美容師のライセンスを持つ芝崎の実力の見せ所なのだ。   「結真君、お疲れ様でした。ここからは僕が変わりますね」 「はい。芝崎さん、お願いします」 「…航太、カットを始めるよ」 「…はい」  その後の芝崎の手際は、流石の一言だった。 慣れた手つきで髪の毛全体にブロック分けをしていきながら、少量の毛束を引いて1ミリの迷いもなく、素早くシザ―を入れていく。  このカット技術を早く身に付けなければならない俺は、後ろに立ってその一連の流れをずっと観察しているのだけど、とにかく芝崎の手際が早いのでなかなか追いつけない。  そうしているうちに芝崎のカット作業はあっという間に終わり、最後の仕上げに入るまでの時間はおおよそ30分もかからなかった。 「はい、終了。お疲れ様でした」  そう言ってバックスタイルを確認するためのミラーを手に、芝崎が航太の反応を待つ。 「航太、どうかな?こんな感じにしてみたけど」 「…うん、いいと思う。…プロの仕事だね、やっぱり」 「そうか…。喜んでもらえたのなら良かった」 「ありがとう、父さん。…それに結真さんも」 「そうかな…俺は大したことやってないんだけど…ほとんど芝崎さんの仕事だよ?」 「それでもいいんです。…オレの為にしてくれたっていう、それだけで。…まだオレは父さんに見捨てられてなかったんだって、そう思えたから。…ありがとうございました」 「…そんな訳ないだろう。今は離れて暮らしてしまっているけど、僕にとって航太は何物にも代えがたい程の…本当に誰よりも大切な息子だよ。…それは絶対に忘れちゃいけない」    芝崎のその言葉が、これまでの二人の間にあった確執の全てを物語っていた。  

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