57 / 119
第57話 あり得ないよね。
呆気にとられたまま、手を引かれると奥の洗い場に連れて行かれた俺。
「ぁ、の~........」
小さな声で事の意味を訊ねるが、チハヤさんは微笑みを浮べると俺と向かい合った。
グッと肩を掴まれて、そのまま見つめ合うと急に照れてしまう。だって近くで見たらやっぱり綺麗な顔立ちで、こんな年上の人になら身を委ねてもいいか、と思ってしまった。
「キス、しようか?!」
「...........ぇ?」
ポワ~ンとなってしまった俺は、そう言って近づくチハヤさんの顔を見た様な、見なかった様な.............。
気付けば唇に触れる感触でやっと我にかえる。
「んっ........!!」
目を見開くと、身体は固まった。
でも、唇が触れたのはほんの一瞬。すぐに肩を掴んだ手は離されて、顔も離れるとニッと笑みを浮べるチハヤさん。
俺は言葉が出て来なくて、ただ突っ立っているだけ。
「な、なにするんですか?」
暫くして、ようやく声を出した俺が訊けば、チハヤさんは尚も笑い顔になってシンクの淵に手を付いて腰を預けると足を交差させた。
「今したキスで、彼に罪悪感とか感じた?」
「は?..........罪悪感?」
そんな事を突然言われても意味が分かんない。それに、今のをキスと言ってしまっていいものなのか........。
「や、.....全く罪悪感はないです。むしろ気持ちのこもっていないキスには何も感じませんでした。驚きだけで。」
俺が正直に答えると、「だよな?!」と、当然の返答を知っていたようにチハヤさんは笑った。
「なんなんですか?これ。」
笑顔を向けるチハヤさんに尋ねると、今度は少しだけ大人の表情をして俺の目を見る。
「ははは、そうだな~、今夜、彼にオレとキスしたって言ってごらんよ。その反応を教えて。」
「は?...............そんな事............云える訳がないですよ。」
俺が誰か他の男とキスしただなんて、正臣に話してどうなるんだ?
そんなの俺がイヤだよ。俺はアイツと同じ想いに気付いたんだ。両想いだって分かって、わざわざ他の男と.........。
「ほぅら、口では罪悪感ないとか言ってるけど、気持ちの中ではメチャクチャ持ってんじゃん。それってさあ、互いに恋人同士だって思っているからだろ?」
「.................」
確かに。
俺は正臣だけにしか気持ちが向いていなくて、昨日の時点で俺と正臣は恋人になってしまった。
「恋人期間を通り越していきなり家族?............あり得ない、って思わなかった?」
「あ、.............」
云われてみれば、家族になりたいなんて云われて喜びよりも違和感の方が強かったのは..............。
チハヤさんと大原さんの二人の距離感なら納得できる。
でも、俺と正臣の距離はまだやっと目の前に来ただけで、これから先の事も良く分からないまま。
家族だなんて、そんな気持ちにはまだなれなかった。
「云ったろ?おーはらはオレの情けない姿も見ているって。オレもアイツのいろんな部分を見て来ている。そういうのを見せ合ったうえで今のオレ達の関係があるんだ。だからやっと家族になれる。ハルミくんは彼のどんなところを見てきた?」
「..............」
何も云えなかった。
正臣の事がずっと好きで、でもそれを伝える事は出来なくて隠し通すつもりだった俺は、アイツの事、何も見ずに来てしまったから。ミキさんとのいきさつも、昨日知ったばかり。しかも正臣はミキさんと別れるつもりは無いという。
恋人同士になれた気がして、少し舞い上がってしまったのか。
でも、性急に何かをしようという事でもなかった。
チハヤさんの言葉を自分に投げかけてみるが、分からないままだ。
「あの、俺、帰ります。ちょっと頭ん中整理しないと...........。」
「そうだね、家族になるにはまだ早すぎる、とオレは思うよ。」
「はい、..............考えます。」
俺の言葉を訊いて、チハヤさんは皿に乗ったサンドウィッチを口に放り込むと「じゃあ、おやすみ。戸締りよろしくね。」と言って店を後にする。片手を軽く上げながら、ひらひらと泳ぐ様に帰っていく後ろ姿を見ると、自分も口に残りのサンドウィッチを放り込み店から出た。
ともだちにシェアしよう!