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第84話 図太くないんだよ!

 あんなに身も心も弱っていたってのに、こうして好きな男の胸に抱かれたら、すっかりそんな事は忘れて溺れている自分に呆れてしまう。 汗で濡れたシーツに身を横たえて、先にシャワーを浴びに行った正臣のいた場所を名残惜しそうに指でなぞってみるが、既に熱は冷めていた。 残るのは、俺の記憶の中のアイツが狂おしそうに俺に打ち込む時の表情。快感と哀愁を混ぜ合わせた様な顔で、俺の上に倒れ込んで果てる。そんな姿を脳裏に焼き付けて、重い躰を起こす。 俺が、ふらつく足でキッチンへ行き、カウンターに置いた薬の袋を仕舞おうと手にした時だった。 聞き慣れたラインメールの軽やかな通知音が耳に入ってくる。 音の鳴った方に視線を向けると、カウンターの隅に置かれた正臣のジャケットの上でスマフォが点滅していた。 俺は一瞬、それに手を伸ばそうとする。普段なら何も気に留める事の無い通知音に、何故か今夜は引っかかるものがあった。 無意識のうちに正臣のスマフォを覗く所だった俺は、気を取り直して手を引っ込めるとそのまま放っておく。 でも、正臣がシャワーから戻らなくて、再び通知音が鳴ると俺の意識は持って行かれ、悪いと思いつつも手を伸ばしてしまった。 _____嫌な予感がする。 どうしてそんな風に感じたのかは分からない。でも、何故か覗かなくてはいけないような...............。 自分勝手な言い草だけれど、発信者の名前を見て胸の奥がズキンと痛んだ。 ...........ミキさん.............. 表示画面をタップすると、そこには写真が..........。 満面の笑みを浮べて、大きく開けた口元から覗く小さな乳歯。まだ二本しか見えなくて。モミジの様な小さな手を何の迷いもなく目の前の人に差し出す涼くんの姿が、『立ったよ!』という可愛い絵文字入りの文面と一緒に送られてきた。 .......これは、今さっき撮った写真なのだろう。 奥に映る掛け時計の針が、ほんの15分前を指している。 ____初めて立てたのか ____一歳と何ヶ月だっけ? ____それって早いのか遅いのか そんな事も知らない俺は、ただ震える唇を手で覆うしかない。 「.........ハルミ?......シャワー、してくれば?」 背中に掛けられた正臣の声に、ビクッと肩が揺れて振り向くが、視線は向けられなかった。 「...うん、」 そうひと言だけ云うと、正臣の横を通り抜ける。 自分の足が、借り物の様にぎこちなく床を踏みしめるのを感じながら、洗面所のドアを閉めた俺はそのまま床にしゃがみ込んだ。 くちびるが震え出すと、膝を抱えた俺は両手で塞ごうとするが、そのままうな垂れて頭を抱えてしまう。 洗面所の中で、俺の世界は閉じ込められてしまったようで息をするのも苦しい。 足音が耳に入ると、「ハルミ、大丈夫か?」とドアの向こうで正臣の声がする。きっとスマフォを見た事が分かったんだろう。 涼くんの姿を見て俺が傷つくとでも思ったか?! それとも、俺に文句でも云うつもりか。 「ごめん、メール見た。........ごめん。」 ひと言だけ正臣に云うと、「.........いいよ、別に。具合悪くないなら、それでいい。」と云ってまた部屋に戻ったようだった。 ____ふっ、 可笑しくなる。 他人の携帯見てんのに、いいって......。許しちゃうんだ?! 俺が酔いつぶれた時は、携帯に出た大原さんの事でセキュリティがどうのと怒っていたじゃないか。 ..............俺が涼くんの姿を目にしても傷つかないって思ってるんだな。 ..............俺はそんなに図太い人間じゃないよ.............. 立ち上がると、そっと浴室のドアを開けて熱の抜けていない床に足の裏を付ける。 それから籠った湯気の中で、シャワーのコックを捻ると頭から湯を浴びた。 打たれるしぶきで、俺の記憶の中の何もかもすべてが、肌を伝って足元の排水溝に流されていくようで、自分の両手で身体を抱きしめるとそこにうずくまる。

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