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第86話 行ったり来たり。

 「お疲れ様ー。今日はみんな早く帰って、ゆっくり身体を休める様に。」 「「お疲れ様でした~」」 口々にそう言って挨拶を交わすと、店の中には俺と大原さんの二人が残ってしまう。 カットを任される様になると、俺も少しづつだけど自信の様なものが湧いてきて、もっと練習もしたいところ。 でも、今日は店長が云ったように、早く帰って身体を休める方がいいのかもしれない。 「最近お客さん多いよね。やっぱり着る服も軽やかになると、みんなヘアスタイルも気になるんだなー。」 ロッカーからバッグを取り出しながら大原さんが云うから、俺は「そうですね」と相槌を打つが、この会話、先月もした覚えがあるな....と思いつつバッグを手にした。 「それでさ、台湾の事だけど..............」 「あ、はい。...........日程は決まったんですか?」 店が決まったのなら色々準備もあるだろうし、俺や大原さんもあっちへ行かなければいけないのかと気になった。 「あー、それはまだだね~。取り敢えず店を決めたってトコまで。.........って、これ、実はチハヤさん情報なんだよね。」 「え?!そうなんですか?............てっきりオーナーが大原さんに話したんだとばかり」 ちょっとだけ拍子抜け。 大原さんとオーナーは主従関係とは違う繋がりがありそうで、だから大原さんのいう事はオーナーからの話だと思い込んでしまう。 「日本で出店するのだって色々手続きとか面倒なのに、外国だからね、更に面倒臭そう。でも、早く行ってみたいな~。」 そんな風に目を輝かせて言うもんだから、俺はチハヤさんの事が気になってしまった。 一緒に暮らしているかどうかは不明だけど、あんなに仲のいい二人がいとも簡単に別々の国で暮らせるものだろうか。 大原さんだって、案外ヤキモチ焼きだし、チハヤさんに近付く男が居たら大変な事になりそう。 不安とかは無いんだろうか..........。 「チハヤさんは何か言ってますか?」 「........え?」 「大原さんが台湾に行くって事で、寂しいとか不安だとか。」 「ははは、まさか!........そんな事云う訳ないじゃないか。チハヤさんはそういうの割り切る人だから。それに仕事だしね。」 「へぇ、そうなんですか。俺だったら................」 「ハルヨシくんなら行かないでって言える?」 「え?..........それは.........云えません。」 「だろ?!僕だって云えないさ。いくら好きでも、その人の人生にどっぷり浸かるのは良い事じゃない。何処か冷めた部分も持っていないと、自分で窮屈になっちゃうよ。その分、二人の世界に浸れるときは思い切り浸っちゃえばいいんだ。」 「.......................はぁ、.......................」 なんとも気の無い返事をしてしまい、俺を見る大原さんの顔が腑に堕ちなさそうだったけど、そのまま店を出るとカギを掛ける大原さんを待った。 自分に自信があるから、こんな事が言えるんじゃないのかな。 俺は正臣と離れる気でいたのに、二人の時を刻んでしまえばまた蒸し返すみたいに火がついて。 結局、ウロウロと気持ちも行ったり来たりを繰り返すばかりだ。 不倫報道なんかを耳にして、昔ならなんてくだらない事をしているんだと蔑んでいた俺が、今じゃあっち側の人間になっている。 ミキさんや涼くんから正臣を奪うなんて出来っこないのに。 ...........でも、心の何処かでは正臣の言葉を信じて、俺と一緒に暮らしてくれるんじゃないかって期待しているのかもしれない。 そのくせ、片方では別れる時期を見定めている自分もいた。 今や俺の心はバラバラだ。心も体も、本当に不安定で、何かの拍子に地の底まで落ちてしまうんじゃないかって思ったりもする。 隣でひとり、台湾への期待に胸を躍らせている大原さんが羨ましくなった。 「......で、どうする?これから。」 「え?.............どうするって?」 俺の腕を掴むと、顔を覗き込んで訊かれたから困惑した表情で訊き返す。 「せっかく早く終わったし、チハヤさんの店、行こうか?!僕のおごりで。」 「え........いいんですか?」 「いいよいいよ、ハルヨシくんは独りでいると暗~く思い悩みそうだから、たまには楽しくやらなきゃ。」 「...............はぁ、...............」 半ば強引に腕を引かれると、俺はそのままチハヤさんの経営するバー『アレキサンダー』へと足を運んだ。

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