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 彼は、多分大切なものを失くしたのだ。  其れも、とてつもなく、凄惨で、悲痛な出来事の中で。  杳。  彼の大切なものの名を知っている。  彼の声から其れがいかに愛おしいものだったか判る。  彼は其れを自らの手で摘み取ったのだ。  「あぁうぅぅー…ぃうー…っ」  僕はどうしたらいいのか判らず泣いた。  僕が泣いたって何も変わらない。  彼が弟を喰ったことも、僕が弟を見殺しにしたことも。  其れは起こった事実。  此の國に溢れた日常的な悲劇。  「あぅ―――」  僕はもう胸が苦しくて咽ぶことしか出来なかった。  洟は垂れ流し、涙も垂れ流し、綺麗とは言えない顔を、覆いかぶさった彼の肩に擦り付けた。  情けなかった。  情けなくて、余計に泣けた。  「うぁぁぁぁぁぁぅーー!あぅーー!」  彼の肩口は僕の涙と洟とでべたべたになっていた。  「あぁう、ああぅぉぉぉ………」  それでも、彼は僕を払い除けたりはしなかった。  情けない。  僕は飯の礼に彼の罪悪を慰める事さえ出来ない。

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