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僕らの幸せな時間
縁側には何時も陽が当たっていた気がする。
其処で彼は僕を膝に乗せ、レコードをかけた。
何枚ものレコード。幾つものメロディ。
だが、彼が最も多く掛けたのは、あの哀しいピアノ曲。
庭には紅葉が色付き、其の紅は戦火と全く違って、安らぎを僕らに与えた。
少なくとも、僕は与えられていた。
何ノ曲デスカ
流れる、静謐なピアノ曲。
僕の指が問う。
「ショパンだ」
彼は応える。
其の呼吸に僕の背中が振動する。
ショパント言フ曲デスカ
僕は会話が途切れることを嫌って問う。
「ふはっ」
一際大きく背凭れが揺れた。
僕は訝かしんで彼を振り返る。
何ヲ笑フノデスカ
僕は彼の胸に、力任せに殴り書いた。
「すまない、すまない」
彼はまだ覚めやらぬ笑いを噛み殺し僕を見下ろした。
「ショパンは作曲家の名前だ。曲は…」
言って、一息吐き、彼の目に陰りが射す。
彼が遠く成り、僕は胸が苦しくなる。
「エチュード」
彼の眼は庭の樹木のずっと奥を見ていた。
こんなにも近くに居るのに、時々、彼は彼岸へ行ってしまっているように思う。
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