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傷と絆8
「母は、父さんが知っているってことを……」
「いや。おそらくあれは知らないはずだ。その側近は父の命令で、母さんに男と別れる約束をさせたが、私にその話を告げたことは、母さんには伏せたらしい」
大胡が語る話は、あまりにも衝撃的な内容だったが、その語り口は恐ろしく穏やかで、事務的と言っていいほど淡々としていた。
貴弘は茫然と父の顔を見つめて
「それで……父さんは納得出来たんですか?自分の妻が不貞を働いて、他の男の子供かもしれない俺を……自分の子供として育てていることを……」
大胡は掠れた声で問いかけてくる貴弘を労るように見ながら
「あの頃の私の心理状態を、おまえに説明するのは難しいな。ちょうど今のおまえと同じ年頃で、私も若かった。もちろん簡単に納得出来たわけがない。悩んだし苦しかったよ。私の預かり知らぬ所で、穏便に事を済ませようとする父や側近に酷く反発もした。だがちょうど、傾きかけていた会社が持ち直して、軌道に乗りかけていた時期だった。私事に思い煩う暇などないくらい、仕事が忙しかった。……情けないことだがな、私は現実に目を背けて、ただひたすら仕事と酒に逃げていた」
「……父さん。俺の、ことは…調べたんですよね?自分の本当の子供か……どうか」
苦しそうに顔を歪める貴弘の手に、大胡は自分の手をそっと重ねた。
「おまえはあの頃、ちょうど可愛い盛りだった。何度か調べようとしたこともあるが……結局出来なかったな」
ちょっと遠い目をする大胡の眼差しが柔らかい。貴弘は弱々しく首をふり
「そんなっ。何故です。自分の子ではないかもしれないのに」
「貴弘。おまえは、私が初めてこの腕に抱き上げた我が子だった。おまえが産まれた時のことは、今でも昨日のことのように鮮明に覚えている。感動だった。身も心も引き締まる思いで、おまえの健やかな成長を願い、守っていくと心に誓った。おまえは私の大切な息子だ。その気持ちに偽りはない」
「……っ」
「秋音の存在が、おまえの心を深く傷つけたことは、本当に申し訳なかったと思っている。そのことが負い目になって、私はずっとおまえの側に近づくことが出来ずにいた。今考えれば愚かなことだ。そんな私の態度が、余計におまえを傷つけていたのだな。おまえが…私に嫌われていると感じていたのなら、それは全くの誤解だよ。軽蔑され嫌われるべきは私の方だ。本当に……すまなかった」
震える声でそう言って、深く頭をさげる大胡を、貴弘は言葉なく見つめた。
子供の頃あんなにも大きく感じた父の身体が、今は小さく頼りなげに見えた。父の姿をこんな間近でじっくり見たのは、何年ぶりだろう。
どれほど近づきたいと願っても、いつも自分には遠い人だった。仕事が出来て人望厚く、穏やかで優しい父。
自分が父を憎んだのは、何故だっただろう。愛人がいたから?秋音の存在?
……違う。多分そうじゃない。
……俺は認めて欲しかったのだ。自分の存在を。周囲から似てない似てないと言われ続けた父さんに、俺はもっと近づきたかった。この人に自慢の息子だと……思ってもらいたかったんだ。
互いに手を伸ばしさえすれば、もっと近く居られたのだろうか。そんな簡単なことを、今になって気づくなんて。
「父さんは秋音を呼び寄せて、跡継ぎにするつもりだったんですよね。その為に……あいつの行方を探して……」
「ばかを言うな。私の跡継ぎはおまえだ。秋音を呼び寄せるつもりなどないと言ったはずだ」
「でも俺は」
「秋音に桐島家を継がせることなどない。本人もそんなことは望んでいない。私の後継はおまえだけだよ、貴弘。何の為に、今までおまえに仕事を教えてきたと思っているのだ。おまえ以外、他の誰に、安心して私の後を任せられると?」
貴弘は目を真っ赤に染めて、顔を歪めた。
「……父さん……俺は……でも俺は」
優しく微笑む大胡の目も赤い。
「早く傷を治せ。おまえが他の道を歩みたいと本心から望むなら、父さんは反対はしない。だが、これまで通り、父さんを支えてくれるのなら、おまえを頼りにしているぞ。おまえは私の自慢の息子だからな」
「……っ」
貴弘の頬に、涙が伝い落ちた。
「満足したか?」
シフォンケーキのひと切れを食べきって、幸せそうにフォークを置いた雅紀の頭に、暁はぽんっと手を置いた。
「うんっ。大満足です。すっごく美味しかった」
「そか。おまえのその顔見れて、俺も大満足だ。残りは冷蔵庫で冷やして、明日の朝また食おうぜ」
雅紀は頷くと、もじもじしながら暁に抱きついて、頬にちゅっと唇を押し付けた。暁は目を丸くして
「おっ。なんだよ~ほっぺにちゅうとか、可愛いことするじゃん」
「う……。感謝のキス、だし」
「照れるなって。ほれ、こっちにも、ちゅうだろ~?」
暁はにやにやしながら雅紀の顔を覗きこみ、自分の唇を指さした。
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