334 / 377
真実への扉8
洗面所の冷たい水で顔を洗って、ハンカチで水気を拭く。泣き過ぎて腫れた瞼は、それぐらいでは元に戻ってくれない。もう少し待合室の方で時間を過ごしてから、病室に行った方がいいかもしれない。
雅紀は鏡の中の自分の顔を見つめた。
何度見てもコンプレックスを刺激される男らしくない顔だち。他人から綺麗だと言われる度に、残念な気持ちになったこの顔だが、最近はそれほど嫌じゃない。暁が好きだと言ってくれる度に、嫌で仕方なかったこの顔が、少しずつ好きになれてきた気がするのだ。
人を愛する気持ちは、心の奥からどうしようもなく溢れ出すもので。自分のことを好きじゃない自分が、他人を心から愛することなんて、出来ない気がする。少なくとも自分はそうだ。
貴弘のことを思う時、暁への感情とはまた別のものが込み上げてきて切なくなる。恋人として愛することは出来なかったが、自分には確かに彼の存在によって救われていた日々があった。今の自分があるのは、貴弘のおかげでもあるのだ。すれ違い行き違い、酷く辛い思いもしたが、今はただ、厳しい現実を突きつけられた彼に、心の平安が訪れる日を願う気持ちしかない。
雅紀は以前より少しふっくらした自分のほっぺたを、両手でぐにーっと引っ張ると、鏡の前でぎこちなく微笑んでみてから、洗面所を後にした。
「お母さんには……結婚前に付き合っていた人がいたの。大胡さんとの結婚が決まった時、泣く泣くお別れして……。もう会わないと決めたはずの彼が、桐島のお義父さまの所で働き始めて。本家にお見舞いに伺った時に再会したの。嫌いで別れた訳じゃなかったし、こちらの一方的な都合でお別れしたから……彼からのお食事のお誘いを拒みきれなくて。そのうちどんどん深みに嵌ってしまって……。彼は……桐島家を恨んでいたのよ。私と別れた時、彼の実家の事業も思わしくなくて。私の家との縁談を強く望んでいたお義父さまは、彼の実家の事業に圧力をかけて潰してしまった。彼のご両親は多額の負債を抱えて自殺してしまったわ。彼は名前を変えて素性を偽って、桐島家に潜り込んでいたの。私に手を出したのも、恐らくは復讐の為。利用されているのは分かっていたけど、私はどうしても拒めなかった。彼のご両親が亡くなったのは、私との関わりのせいだったから。そうして……あなたが産まれた。私は恐ろしかった。大胡さんと彼と、どちらが本当の父親なのか、私には分からなかったの。でも彼は、自分が子供の父親だと確信していたわ。……私はもう後戻り出来ない状態だった。あなたを大胡さんの子供として育てることだけが、私に出来る全てだった。……それが彼の復讐の手助けになってしまうことは分かっていても、それ以外の道はないと思っていたの」
罪人のように項垂れて、ぽつりぽつりと話す母親の姿は哀しかった。話す内容も哀し過ぎた。
母は裕福な家庭で何一つ不自由なく育った、世間知らずの箱入り娘だった。桐島家に復讐を誓った男が、そんな母を自分の道連れに堕としていくのは、容易いことだったろう。罪の意識に苛まれ、子供の素性がバレないようにと怯える毎日の中で、母はいつしか男の操り人形のようになってしまったのだろうか……。
「……母さん。秋音の母親を……事故に見せかけて殺したのは、その男と母さんですか?」
麗華はぼんやりと顔をあげた。その目は虚ろで、急に何歳も年をとってしまったように見えた。
「その男と母さんが、誰かにそれを依頼したのですか?」
「私は……知らなかった……。彼に後で聞かされたの。彼は、私の望みを叶えてやったと言ったわ。子供の素性を知っている愛人は消してやったから安心しろと。後は……その息子の始末だけだと。私はもう何が何だか分からなくなって。心が完全に麻痺してしまった。邪魔なその息子が消えてさえくれたら、もう怯える必要はないのだと、そう思うようになってしまった」
大胡の推察通り、母は直接動いてはいない。男が実行犯に命じて、母は事後報告をされていただけだろう。男のやっていることを知っていて、それを黙認していた母にも、もちろん償いきれない罪はあるのだが……。
「秋音はその後、3度命を狙われています。その全てに、片岡という男が関わっていたのですね?」
貴弘の質問に、麗華は涙ぐみながら無言で頷いた。
「お母さん。その片岡という男は今、どこにいるんですか?」
書籍の購入
ともだちにシェアしよう!