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つきのかけら2

雅紀がドアを開けて部屋に入ると、貴弘は背もたれを起こして、ベッドの上に座っていた。 「貴弘さん…」 「ああ。よく来てくれたね」 雅紀を手招きする貴弘は、穏やかな笑みを浮かべている。雅紀はおずおずとベッドに近づき 「具合……どうですか?傷はまだ……痛む?」 「今はそれほどじゃあないよ。麻酔がきれた直後ぐらいが一番きつかったかな。熱も出なくなって、医者には回復が早いとお褒めの言葉をもらったよ」 「そう…良かった。酷くならなくて。……あ、これ、お見舞いです」 雅紀は花束を机の上に置いてから、ちょっとはにかんで 「これ、俺が作ったんです。シフォンケーキ」 貴弘にケーキの箱を差し出す。貴弘はちょっと驚いた顔で雅紀をまじまじ見てから、ケーキの箱に視線を落とし 「へえ……君が?すごいな。開けて見せてくれないか」 雅紀は頷くと、リボンを外して蓋を開いた。貴弘は中を覗き込んで目を見張り 「驚いたな。まるで店で売っているみたいに綺麗じゃないか。君にこんな特技があったとは……知らなかったよ」 感心しきった貴弘の言葉に、雅紀は照れくさそうに首を竦め 「教えてもらったんです。作り方。生クリームでデコレーションして、ドライベリーを飾るのも。思った以上に綺麗に出来て、すっごく嬉しかった」 幸せそうに微笑む雅紀を、貴弘はちょっと眩しそうに見つめた。 事件から一週間以上を、この病室で過ごしている。最初は傷の痛みや熱が出て、うつらうつらしている時間が多かったが、身体が回復してくると、ぼんやりと考え事をして過ごす時間が増えた。 瀧田の起こした事件のこと。 父から聞いた自分の出生の秘密。 そして、母が起こした秋音の事件。 どれもこれもがあまりにも衝撃的で、苦しく、哀しかった。 この数日で、自分の生きている世界が激変してしまった。 考えなければいけないことは山ほどある。父との今後。仕事のこと。犯罪者になってしまった母のこと。そして……本当の父親かもしれない男のこと。 そんな状況なのに、今自分の心を一番占めているのは……雅紀のことだった。 皆が言うように、そして雅紀自身が言ったように、雅紀の心に自分はいなかった。最初からずっと。自分が雅紀を想うようには、雅紀は自分を想ってくれていなかった。全部、独りよがりで、勝手な思い込み。 父に諭され、頭では理解したつもりでいたが、心がそれを拒絶していた。 浅い眠りを繰り返す度に、夢に雅紀が現れた。夢の中の雅紀は、いつもふんわりと微笑んでいて、でもどこか寂しげだった。 今、目の前で幸せそうに笑っている雅紀。その笑顔には、夢の中のような儚げで寂しそうな陰はない。 雅紀にケーキの作り方を教えたのが誰なのかなんて、分かっている。こんなにも晴れやかで幸せそうな笑顔を、雅紀にさせてやれているのは……秋音だ。雅紀が自分の全てだと言い、命懸けで守ろうとした男……。 「貴弘さん……?……大丈夫……ですか?」 心配そうな雅紀の声に、貴弘ははっと我に返った。せっかく幸せそうに微笑んでいた雅紀の表情が、不安に曇っている。 ……ああ……そうか……。俺ではダメか……。俺はおまえに、そんな顔しかさせてやれないんだな……。 不意に込み上げてきた慟哭を、貴弘は必死の思いで飲み込んだ。 どれほど愛おしくても、幸せにしてやりたいと願っても、雅紀がこの手を取ることはない。彼が必要としているのは、自分ではない。愛しているのは、あの男だけなのだ。 「……雅紀。前よりふっくらしたね」 「……え……?」 「君の顔だよ。健康的でいいな。前よりもっと綺麗になった」 貴弘に真顔で褒められて、雅紀は恥ずかしそうに自分の頬を押さえた。 「私は君を苦しめていたんだな。今の君の表情を見ていて、つくづく思い知ったよ。……雅紀。すまなかった。私の勝手な思い込みで怖い思いをさせたね。本当に申し訳ない。許してくれ」 そう言って深く頭をさげた貴弘に、雅紀は首を横にふり 「俺の方こそ、ごめんなさい。俺、貴方の気持ちを軽く考えてた。貴方の優しさに甘えきって、すごく浅はかでした。俺がもっと早くにきちんと意思表示してたら、貴弘さんに誤解させないで済んだんですよね。貴方の気持ち、気づけないで、傷つけてしまって……ごめんなさい」 貴弘は顔をあげ、雅紀の真剣な表情を見つめ返した。 互いに相手の気持ちが見えなくなっていた。ようやく元通りの2人に戻れた。 でもそれは、新たな関係の始まりではない。別れの時が来たのだ。

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