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後日談 『おしおきー76』
雅紀はまた唇を寄せてこようとする暁をするっとかわして、オーブンを覗き込み
「余熱完了まであと30秒、です」
「んー。じゃ、完了したらさ、10度下げて本焼きな。そいつ、最近気温上がってきたから、設定温度より高めになっちまうんだよ。そろそろ新しいのに買い替え時かもな」
雅紀はしげしげとオーブンを見つめて
「そういえば、最初、暁さんの部屋でこれ見た時はびっくりしたなぁ。あんなレトロなアパートに、こんな本格的なオーブン? って」
余熱が完了すると、温度設定を暁の言う通りに変えて、扉を開けると、生地を入れた型をオーブンの中にセットして扉を閉める。最初の頃、おっかなびっくり及び腰でやっていたこういう一連の作業も、すっかり慣れて様になっている。
雅紀はお菓子作りがいたく気に入って、仕事が休みの日はほぼ毎回、新しいもの作りに挑戦していた。あんまり頻繁に作るので、男2人では食べきれないが、幸い田澤の事務所には甘いもの好きや食いしん坊がたくさんいる。上手く出来た時の達成感と、喜んで食べてくれる人がいることが、雅紀のお菓子作りへの励みになっているようだった。
焼きあがっていく生地を小窓から覗き込み、甘い香りに鼻をひくひくさせながら、満足そうに微笑んでいる雅紀の横顔が可愛い。
暁は頬をゆるませて見守りながら、秋音の主張を思い返していた。
「俺が店をやった方がいいっていうのは、おまえがお菓子作りが得意だからってことだけじゃないんだ。俺が一番優先したいのは、雅紀の幸せなんだよ。
建築デザインの仕事でも、もちろん雅紀は能力を発揮出来ると思う。一緒に仕事していけるっていう点では、どちらの特技を活かしたって構わないと思っている。
ただ、会社が軌道に乗れば、雅紀にも単独で取引先に交渉に行ったりする機会が増えるだろう? 忙しくなってくれば、俺も手1杯であいつの様子を見ている余裕もなくなる。
今はすっかり落ち着いているが、雅紀の抱えているトラウマは結構根が深い。いつ何がきっかけで、またパニックを起こさないとも限らない。
俺は心配なんだよ。肝心な時に側にいてやれなくて、また雅紀が苦しむのはごめんだ。出来るだけ側にいられる状況で仕事出来る方が安心なんだ。俺はちょっと……あいつに関して、過保護過ぎるのかもしれないけどな」
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