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硝子のつき3

さっきから吐き気が止まらない。 よろめきながらなんとか数歩進み、時折立ち止まって口を押さえる。 桐島の唇が、舌が、指先が、身体中を這いまわり、舐め回した感触が、生々しく残っていて消えてくれない。 嫌で堪らないのに、無理やり快感を引き出され、昂らされた。 途中からは、もう早く終わって欲しくて抗うのを止め、積極的に桐島の愛撫を受け入れていた。 うがいをしたい。 早くシャワーを浴びて、全身にこびりついている、桐島の愛撫の感触と痕跡を、全て綺麗に洗い流したかった。 ようやくの思いで、駅構内に辿り着き、改札を通り抜けて、ホームへの階段を登る。 ホームのベンチに座り込んだ途端、強烈な吐き気が込み上げてきて、雅紀は鞄を放り出し、両手で口を覆って蹲った。 幸せだった暁との時間の名残は、跡形もなく消えていた。ほんの数時間前のことなのに、はるか遠い昔のことのようだっだ。 ……自業自得だ。バチが当たったんだ。 独りが寂しくて、でも深入りするのは怖くて、簡単に手に入りそうな温もりに、安易にすがりついてきた。 そんな都合のいい安らぎなんて、あるはずなかったのに。 どうして、自分と付き合う男は皆、同じような変わり方をしてしまうんだろう。 桐島が「これからはそばにいて君を見守ってあげられる」と言った時、雅紀の頭の中にフラッシュバックした光景は、忘れたくても忘れられない、昔の彼の記憶だった。 彼の家の一室に閉じ込められて、身動き出来ないように拘束されて、恐怖にすくみあがっていた雅紀に、彼が言ったのだ。 さっきの桐島と、同じ表情、同じ目をして、まったく同じ言葉を。 悲鳴をあげそうになって、雅紀は口を覆っていた両手に、更に力を込めた。 どうしよう……怖い……どうしよう…… 身体がガタガタ震える。吐き気だけじゃなく、目眩と耳鳴りと寒気まで襲ってきた。 ……助けて……誰か……助けてっ… 到着のアナウンスか響き、電車がホームに滑り込んできても、雅紀はベンチで蹲ったまま、動くことが出来なかった。 まだ、仕事してんのかな……あいつ。 パソコンに、今日自分が撮った写真のデータをおとしながら、暁は吸いかけの煙草を口にくわえて、テーブルの上のスマホに目をやった。 ラインを開き、友だちの「まさき」のページをタップしてみる。 ―はじめまして。篠宮雅紀です。 たった一行だけの彼からのメッセージ。同じように返した自分のメッセージ。 見返すたびに、なんだかこそばゆいような気分になり、そんな自分がちょっと気恥ずかしい。 ……終わってんなぁ~俺。だからどこの恋する乙女だよっつーの。 煙草の煙を吐き出しながら、文字入力の画面を呼び出して「仕事終わったか?」と送信しかけて、時刻を見て手を止める。 ……もう0時過ぎてんのか……。会議で朝早いっつってたもんな。さすがに寝てるか……。 送信は諦めて、そのままラインを閉じる。 雅紀と別れてから、なんとなく物足りなくて、もじ丸に寄ろうかとも思ったが、独りで店で飲むのもなんだか虚しくて、結局コンビニでビールを買って、アパートに戻った。 風呂あがりに、ビールを飲みながら、先に雅紀の撮った写真データをパソコンにおとした。 雅紀の撮った写真は、彼の夢中な気持ちそのままに、同じ被写体を、距離を変え、角度を変え、視点を変え、何枚も撮りながら、次の被写体へと移ってゆき、結構な枚数になっていた。 よく撮りに行く見慣れた公園の風景なのに、自分とは違う視点で切り取られた絵が新鮮で。時間の経つのも忘れて見入っていた。 ……次は、どこに連れてってやろうか。 あいつのことだ。どんな所に行っても、きっと目をキラキラさせて、好奇心いっぱい、写真を撮りまくるんだろう。その姿が容易に浮かんできて、もう今から次の約束が、楽しみで仕方ない。 ……なんかもう……認めるしかない気がすんな~… 俺、あいつのこと好きだわ。 や、恋かっつーと……よくわかんねーけど、友だち……ってのも違う気がする。 数時間前に別れたばかりなのに、もう顔が見たくなっている。というより、今そばに雅紀がいないのが、物足りなくて寂しい。 ……あ~頭くしゃくしゃってしてやりて~ 取り込みが終了した自分の撮った写真データを開くと、最初に撮った雅紀の顔。 ちょっと驚いたように目を見張って、こちらを見つめている。 雅紀を待たせていた間、暁は、悩みに悩んで、結局、どうしても残しておきたい写真は、削除できなかった。1枚1枚、液晶モニターを見ながら検討して、最終的に20枚ほどが残った。 こうしてパソコンの鮮明な画像で見てみると、残した後ろめたさよりも、削除してしまった写真への心残りの方が勝る。 ……次行った時は、ちゃんと撮るからなって断り入れて、もし嫌がっても、きちんと説得して撮らせてもらうか……。 そう結論づけて1人納得すると、暁は微笑みながらパソコンの電源をおとした。 

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