43 / 377
硝子のかけら3
暁のことを考えながら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
気がつくと朝で、嫌な夢を見て飛び起きた記憶もない。
そのおかげなのか、自分の精神状態が、昨日よりかなり落ち着いているのを雅紀は感じた。
狭い部屋に置かれた、1人掛けのソファーに座り、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して、シリアルバーをもそもそとかじり、水で流し込む。
冷静になって考えてみれば、電話の方は分からないが、桐島からメールは来ていなかった。アパートにも来なかった。
自分があの場から逃げ出したことで、桐島は自分の気持ちを察して、もう深追いはしないつもりなのかもしれない。
過去の記憶が偶然重なったことで、こっちが勝手にパニックに陥ってしまったが、桐島は昔の彼のようなタイプではない気がする。
社会的に安定した地位もある、雅紀より一回りも上の大人なのだし、あの時は奥さんのことでショックを受けていたから、桐島の方も混乱していたのだろう。
もう1度落ち着いて話をして、自分の気持ちをハッキリ伝えれば、桐島はわかってくれるのかもしれない。
考えれば考えるほど、自分が過剰な反応をしてしまっただけのような気がしてくる。
……会社休んで、こんなとこに逃げ込んでても、ずっとこんな状態でいられるわけないんだし……昔のトラウマ、いい加減克服しないと、俺……この先まともに生きていけないよな……
着替えを取りに、1度アパートに帰ろう。大丈夫そうなら、ここをキャンセルすればいい。
アパートに戻ると、もう昼過ぎになっていた。
とりあえず、実家で適当に着てきた昔の服から、いつもの普段着に着替え、スーツをハンガーにかけた。見慣れた自分の部屋に帰ってみると、もうビジホには戻りたくない。
ちょっと腰を落ち着けて、コーヒーでも飲んで考えようと、キッチンに行って、やかんに水を入れ始めた途端、玄関のチャイムが鳴った。
ギクっとして、慌てて蛇口を止め、ドアを見つめる。
ちょっと苛立ったように、そのあと立て続けにチャイムが3回鳴り、更にドアをドンドン叩く音が響く。
「雅紀、いるのか?いるなら開けなさい。私だ。雅紀。」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、桐島の声だった。
雅紀は、蛇口に手を置いたまま、凍りついたように動けない。
「雅紀っ。いないのか?雅紀っ雅紀!」
桐島の声が、ドアを叩く音が、だんだん苛立ちを増していく。
……やっぱりダメだ……。貴弘さん……おかしいよ……ダメだ……怖い……。
ガタガタと音でも鳴りそうなほど、身体が震え出す。ようやく治まったはずのパニックに、また襲われかけていた。
近所迷惑になりそうなくらい、ドアを叩き続けた桐島が、ようやく諦めたのか立ち去っていった後、雅紀はベッドの布団を頭から被り、震えながら時間が過ぎるのを待った。
すぐに出ていけば、桐島が待ち伏せしているかもしれない。
そうして午後3時過ぎ、雅紀は、目につくものを片っ端から旅行バッグに詰め込んで、何度もまわりを確認しながら部屋から出た。
アパートの裏に回り、いつもとは違うルートで駅へと急ぐ。
ビジネスホテルに戻ると、旅行バッグを床に放り出し、そのままベッドの上にへたりこんだ。
もう、どんな楽観的な考えも、浮かんでは来なかった。あれは自分が知っていた、優しくて大人な桐島ではない。やっぱり変わってしまったのだ。
……まともに飯食ったの、いつだっけ。
っていうか、今日、何曜日?
最初に何個か買い込んだ、ゼリー飲料とシリアルバーは、もうなくなっていた。何か食べなきゃダメだとは分かっているが、買いに行きたくても、身体がダルくて動きたくない。
ベッドに横たわり、ただぼんやりと天井を見上げていた。
……俺、死んじゃうな……このままこうしてたら。いや、そう簡単には、死ねないのかな……。ホテルの人に見つかって、救急車とか呼ばれちゃって……。
もうなんか、どうでもよくなってきた。
頭、ぼ~っとする。
充電器を差し込んだまま、枕元に置いていたスマホに、そろそろと手を伸ばし、顔の近くに引き寄せた。
電源を入れると、マナーモードにしていたスマホがブブブ……と何かを通知した。画面を見てみると、ラインのメッセージの通知。
送り主は「あきら」
雅紀は、スマホを握りしめたまま、ガバッと起き上がり、途端にクラリと目眩がして、手で頭を押さえた。そのまま目眩がおさまるのを待ち、通知画面を見つめる。
間違いない。「あきら」だ。
―日曜日、どうする?
雅紀は急いでラインを開き、「あきら」のページをタップした。
メッセージの日付と時間は、今日。今から5分ほど前。
入力ボードを呼び出して、思わず「会いたい」と入力し、送信しようとして、指が止まる。
……会いたい会いたい会いたい。
暁さんに、会いたい。
でも……会えない。会えないよ……。
会いたい、の文字の上に、ポトリと涙が落ちた。
書籍の購入
ともだちにシェアしよう!