461 / 605

番外編『愛すべき贈り物』10

あの頃、目を開けても閉じても、俺の頭の中は空白だった。 思い出さなければいけないことが、たくさんあるはずなのに、どれだけ考えても何をしても、俺の頭は空っぽで、焦りと絶望だけが、繰り返し押し寄せてくる。 早瀬のおじさんとおばさんに、焦るなと何度も諭されて、田澤社長を紹介されて仕事も貰えた。昼間、人と触れ合い、しゃかりきに働いている間は、いろんな鬱屈を忘れていられた。 でも、夜になって独りになると、ダメだった。真っ暗な闇が俺の心を飲み込もうとする。 俺は酒に溺れ、やがて女に溺れた。仕事が終わると独りになるのが怖くて、盛り場へと繰り出した。孤独も恐怖も不安も焦燥も、全て忘れてしまいたくて、酒を飲み、話しかけてくる女とホテルに行って、柔らかい身体に必死にすがりついた。 酒に酔って女の身体に夢中になっている時は、何もかも忘れられた。 でも……疲れ果てて眠りにつくと、安らかなはずの睡眠は、記憶の切れ端のような悪夢を連れてくる。切れ切れに見せられる残像。闇に追いかけられる恐怖。俺は何度も魘されながら飛び起きて、頭を掻きむしった。 里沙に会ったのは、そんな不毛な日常を繰り返していた時だった。 ふと立ち寄ったバーで、カウンターの端に座って酒を飲んでいる女。 周りの男達が牽制し合いながら、その女に声をかけるタイミングを狙っていた。俺はその場の雰囲気を無視して、女の隣に座って、酒を頼んで飲み始めた。 そっと横顔をうかがうと、女は周りの空気などまったく感じていない様子で、ただぼんやりと酒を飲んでいた。かなりの美人だ。 俺は声をかけるつもりもなくて、女の隣で静かに酒を飲み続けた。 ふと、視界に映る女が微かに身じろぎしたような気がして、俺はちらっと隣を見た。 女の頬に涙が伝い落ちるのを見て、俺はどきっとした。 「誰か、来るのか?」 俺の問いかけに、女はこちらを見ようともせずに 「来ないわ。もう終わったから」 「そうか。んじゃ、そろそろ行こうぜ」 女はちょっと驚いた顔で、俺の方を見た。 「行くって、どこへ?」 「夢のない世界に、かな」 女は綺麗な眉をきゅっと寄せて 「嫌よ。夢のある世界がいいわ」 「OK。んじゃ、連れてってやるよ」 俺がスツールから降りて女の分の会計も済ませると、女は黙って俺の後に続き、そのまま店を出た。 その女ー橘里沙は、俺がその頃とっかえひっかえに遊んでいた女たちとは、ちょっと毛色が違っていた。 俺も彼女も、後腐れのない関係を望んでいたから、最初のうちは下の名前で呼び合うくらいで、お互いの素性については明かさずにいた。 里沙とは不思議とウマが合った。一緒にいてほっとしたし、会話も楽しかった。身体の相性も抜群だった。

書籍の購入

ともだちにシェアしよう!