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迷い月2
急に体調不良で5日も休んだ雅紀を、職場は拍子抜けするほどいつも通りの雰囲気で、迎え入れてくれた。
気まずさから変に緊張していた雅紀も、不在の間に代わって業務をしてくれた先輩たちから、無事に仕事を引き継ぐと、ほっと肩の力を抜いた。
午前中はあっという間に時間が過ぎ、昼休みになった。いつも一緒に外に食べに行く同僚が外出中だったので、雅紀は一人で近くの小さな喫茶店に向かった。
今時の洒落たカフェではなく、昔からある喫茶店で、ランチサービスなどやっていないので、昼休みはいつも閑散としていた。
雅紀はその人気のなさが気に入っていて、同僚が外出中の時は大抵ここに来ていた。
今日も店内に入ると他に客の姿はなく、レジの脇に腰かけ新聞を読んでいるマスターに、ナポリタンとアメリカンを注文すると、一番奥の窓際の席に腰かけて、ほっとため息をついた。
今朝車の中で、暁に持っていけと握らされたマッチを、上着のポケットから、煙草と一緒に取り出し、眺めてみる。
仕事中は集中していて、思い出す暇もなかった暁の顔が浮かんできて、雅紀の頬は自然とゆるむ。
もう一方のポケットからスマホを取り出して、画面を見る。ふと思いついてラインを開き、暁にメッセージを送ろうとして…躊躇った。
まだ、何時に仕事が終わるか分からない。
早く帰れれば、自分のアパートに一緒に行ってもらうつもりでいたが、引き継ぎの内容を確認してみて、今日は無理かもしれないと思い始めていた。
今日の午後は、既存の顧客から紹介された新規のお客様の所に、挨拶に行く予定が入りそうなのだ。他にもう一件、先輩が最終段階まで詰めてくれていた、顧客との打ち合わせの予定がある。
どう段取りよくこなしても、定時近くに終われる見込みはなかった。
もし、今日荷物を取りに行けなかったら、暁の方が都合がつかなくなりそうだが、それならそれで、諦めるつもりでいた。
今月はビジホ代が予想外の出費で、なるべく節約するつもりだったが、もともと金のかかる趣味もない雅紀の預金通帳は、ちょっとした旅行が出来るくらいには、まだ余裕がある。
スーツもワイシャツもネクタイも、どうしても取りに戻れなければ、暁の言う通り、買い足す方がいいかもしれない。
ラインのあきらのページの、金曜日に暁がくれたメッセージを読み返してみる。
―日曜日、どうする?
この短いメッセージが、どうにもならなくなっていた自分を、救ってくれたのだった。
「はい。ナポリタンとアメリカンね」
マスターが素っ気ない口調でそう言って、湯気のたつパスタをテーブルに置いた。暁のメッセージに見とれていた雅紀は、はっとしてスマホの画面を閉じると、ちょっとどぎまぎしながらフォークを手に取り、パスタを食べ始めた。
ふいに小さなドアベルが、来客を告げる。音につられて入り口を見ると、入ってきた客と目が合った。知らない顔だが、なんとなくじっと見られた気がして、雅紀は慌てて目を逸らす。一番離れた席でこちらを向いて座った、その男の視線が妙に気になって、パスタを食べ終わるまで、雅紀はずっと目を伏せていた。
コーヒーを飲みながら、煙草とマッチに手を伸ばすついでに、そっと視線をあげてみる。
男は下を向き、手元のスマホを見ていた。雅紀は何となくほっとして、煙草をくわえマッチを擦ってみる。一発で火が点いて、ちょっと嬉しくなって微笑むと、煙草に火をつけた。
マッチで点けた煙草は、いつもより美味しい気がした。
雅紀はまたラインのあきらのページを開くと、
―今日は残業かもしれないです。
そう文字を打って、思いきって送信した。
暁は忙しいのだろう。昼休みを終えて会社に戻るまで、送ったメッセージに既読はつかなかった。
午後一番に、予定していた通り、先輩が業務を代行してくれていた顧客の所に、打ち合わせに行った。小さな変更点はいくつかあったが、無事に打ち合わせを終えて、再び会社に戻ると、部長から会議室に来るように言われた。
直属の課長ではなく、部長から呼ばれるのは珍しい。
雅紀はちょっと首を傾げながら、会議室に向かい、ドアを開けた。
「ああ、篠宮くん、忙しいところ、呼び出してすまんね」
「いえ。あの。何か問題でも?」
促され椅子に座ると、部長は機嫌よさげに笑って
「体調が悪かったそうだが、もう大丈夫かな?」
「あ。先週は急にお休みを頂いて、すみませんでした」
「いや。酷い顔色だったと狩谷課長が心配していたよ。病院には行ったのかね?」
「あ…。はい。あの。特に病気という訳ではなくて、風邪をこじらせたみたいで…」
「君は入社して3年か。一人立ちして、受け持つ顧客も急に増えたから、知らずに疲れが溜まっていたんだろう」
「申し訳ありません。しっかり休ませて頂いたので、もう大丈夫です」
部長の理由の分からない機嫌の良さが何となく不安で、雅紀は緊張して、膝の上の手を握りしめた。
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