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迷い月3
「佐武くんからもう聞いているかな?松倉工務店の社長から紹介された新規の話は」
佐武というのは雅紀の2年先輩で、雅紀が入社した時からの教育担当だ。今回の休み中も、雅紀の顧客の半分以上を、佐武がフォローしてくれていた。
「あ。はい。今日アポが取れたら、ご挨拶に伺う予定です」
「そうか。実はね、私の知人からも同じ話を受けているんだ。とにかく多方面に顔のきく人物でね。懇意にしておいて損はないと思う」
「はい」
「この仕事が気に入ってもらえれば、他の顧客を紹介してもらえるチャンスも増える。君で判断がつかないことがあれば、狩谷なり私なりに、遠慮なく相談してくれ」
「わかりました」
「それでだ。先方からさっき連絡があってね、今日の午後5時に、君に行ってもらいたい場所がある」
雅紀はちょっと目を見張り、
「あ。ではもうお約束頂けたんですね」
「ああ。社内業務は早めに切り上げて、遅れないように向かってくれよ。帰りはそのまま直帰で構わない。これが先方の名刺と、今日訪ねる場所の地図だ」
「分かりました」
雅紀は、部長から名刺とプリントアウトされた地図を受け取った。
「瀧田総一様、ですか…」
「伺うのは瀧田氏の建てたばかりのセカンドハウスだそうだ。かなりの資産家だからね。そのセカンドハウスも有名建築家の監修らしい。じっくり見せてもらって、今後の参考にさせてもらうといいね」
「あの……すみません……どうしてこの仕事、私みたいな新米に?佐武先輩の方が適任なんじゃ…」
「先方からのご指名だよ。1月に君が担当した門田邸。あの内装とインテリアがいたくお気に入りでね。担当者に一度会わせて欲しいと、あちらから話をもちかけられたそうだ」
「……そう……ですか…」
部長がご機嫌な理由がわかって府に落ちたものの、ワケありの休み明けに、いきなり降って湧いた、予想外の大きな仕事に、嬉しさよりも不安の方が勝る。
会議室を出て、自分の席に戻ると、パソコンを立ち上げて、過去の仕事のファイルを開いてみた。
1月に担当した門田邸は、雅紀が最初から最後まで、1人で受け持った仕事の中では、一番大きなものだった。
やはり個人のセカンドハウスで、内装とインテリア一式を担当した。個人収集の油絵を一般公開したいと言う、一風変わった注文で、資料を集めたり、あちこちの美術館を見て回ったりと、手間も苦労もあったが、かなり納得のいく仕上がりになり、自分なりのやり方をつかむキッカケにもなった仕事だった。
「瀧田総一だろ?今日の新規。やったな。面白い仕事が出来そうじゃないか」
いつの間にか、すぐ後ろに立っていた佐武先輩が、パソコンをのぞきながら、声をかけてきた。
「うーん……そうなんですけど…」
「何?自信ないか?大丈夫だよ。まだどんな内容かは分からないけど、俺も出来るだけフォローしてやれって、課長に言われてるからな」
「すみません。いろいろ手間のかかる後輩で」
雅紀の言葉に、佐武はにやっとして、
「今回の休みのフォロー分は、次の飲み代でチャラにしてやろうかな。駅裏にな、最近テレビでも話題の居酒屋が、オープンしたらしいよ」
「あー。杉田先輩も何かそんなこと言ってましたね」
「今度あいつも誘って行ってみるか。……ところで篠宮」
「はい?」
「休み中、彼女の手厚い看病、受けてたのかな?」
「え……?」
急に声を潜めた佐武に、雅紀は怪訝な顔で彼の視線を辿った。佐武は笑いながら雅紀の首の後ろを見て
「お前、えりあし長めだから、ちょっと見だと分からないけど、この位置からだと丸見え。キスマーク」
佐武の指摘に、雅紀は真っ赤になって自分の首を押さえた。
「…っ……目立ちます?」
「かなり、ね。彼女、年上?夜の方、随分と激しいんだな」
「や…あの…え…と」
……暁さんのバカっ……そんなに目立つなら言ってよっ……バカーっ
慌てふためきながら、雅紀は心の中で、暁に毒づいた。
佐武は隣の椅子を引っ張ってきて座ると
「うーん……意外だ。お前もそんな顔するんだね。浮いた話自体、今まで聞いたことなかったよな。美形なのに超ストイックで、人を寄せ付けない雰囲気でさ。それが、年上の彼女持ちかぁ……。事務の女の子たちが聞いたら泣くよ」
「や、いやいや、そんなこと…」
「ちなみに杉田からは、何も言われてないの?あいつ気づいたら、相当ショック受けると思うけど」
「は?え……あの。なんで杉田先輩が?」
赤い顔で、頭の上に?を大量に飛ばしている雅紀に、佐武は苦笑して
「まあ、いいや。続きは飲みの時にでもな。で、早速仕事の話なんだけど。今日、瀧田氏に会う時な、門田邸で使った資料は、取り敢えず全部持っていくこと」
「あ。はい」
雅紀は表情を引き締め、佐武のアドバイスに真剣な顔で聞き入った。
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