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迷い月5

何もない部屋の中で、大きなソファーベッドの端に座り、雅紀は居心地の悪さを感じながら、視線をさまよわせていた。しばらくすると、瀧田がマグカップを両手に持って戻ってきた。ヘッドテーブルの上にそれを置き 「まだコーヒーぐらいしか出せないんですよ。申し訳ないが」 「あっいえ。どうぞお構い無く」 雅紀が恐縮すると、瀧田は笑って 「そんな端じゃなくて、もう少しこちらに」 「あ……はい…」 雅紀は立ち上がり、ビジネスバッグと資料の入った袋を持って、瀧田に近寄り、2人分のスペースを開けて腰をおろした。他に座る場所がないから仕方ないが、商談相手とテーブルもなしに横に並んで座るのは、どうにもやりにくい。 「1階は住居スペースですか?」 瀧田に渡されたマグカップを受け取り、雅紀が質問すると 「そう。キッチン、リビングダイニングの他に、浴室、トイレ、洗面所、客間が6室あります。まだ3週間前に完成したばかりなんです。横浜の自宅からせっせと通ってるんですが、ご覧の通り、最低限泊まれるぐらいの物しか、置いていないんですよ」 「2階の一面フロアは、どのような使い方をお考えですか?」 雅紀の質問に、瀧田はすぐには答えず、コーヒーをすすると、雅紀の顔をじっと見つめて 「君はもう少し太った方がいい。食が細いの?食べても太らないタチなのですか?」 「は?……あの?」 「今日はこれから来客があるから無理ですが、明日、君を夕食に招待しましょう。好き嫌いはありますか?」 雅紀は面食らいながら、視線を泳がせ 「あ。いえ。特には…」 瀧田はにっこり微笑むと、 「私は我が儘なんですよ。会ったばかりの君と、仕事の話はしません。特にこのセカンドハウスは、私のごくごくプライベートな願望を満たす為の空間ですからね。まずは一緒に食事をして、もう少し打ち解けて、お互いをよく知ってから、詳しい話をしましょうか」 「あ……はい。すみません」 結局、持っていった資料は、一度も袋から出すことはなかった。 瀧田の、仕事内容とは直接関係ない質問に、雅紀が答えるだけで、30分ほどで訪問は終了して、雅紀は狐につままれた気分で帰途についた。 ……あ……暁さんにラインしなきゃ。 車を走らせてから10分以上も経って、雅紀はようやくハタっと現実に戻り、近くのコンビニに車を停めた。ドリップ式のホットコーヒーを買い、車に戻って、ため息をつく。 ……なんていうか…強烈な人だな、瀧田氏って。 終始穏やかに微笑んで、ゆっくり丁寧な言葉を紡ぐのに、眼鏡の奥の目は鋭くて笑ってはいないように感じた。 他人の体に触れることに無頓着なのは、暁とよく似ているが、触れられた時にいやにひやっとするのは、自分の気持ちの問題だろうか。 まるで科学者のような、冷静に分析でもしているような視線を、一緒にいる間、絶えず感じていた気がする。 ……あのインテリっぽい眼鏡のせいかな……。俺みたいな年下の人間に、嫌味なくらい丁寧な話し方してたし。 スマホを取り出し、ラインのあきらのページを開く。文字を打とうとして、無性に声が聞きたくなった。恐る恐る、暁の番号に電話をかけてみる。 「雅紀か?」 呼び出し音2回で暁の声が聞こえた。そんな早く出ると思ってなくて、雅紀は一瞬息を飲んだが、おずおずと 「……暁さん?」 「おー。何、早いじゃん。もう商談終わった?」 「うん……今、車で会社に戻ってるところ…です」 「どうした?元気ないな。仕事、上手くまとまらなかったか」 「うーん……。雑談だけで、仕事の話まで行き着かなくて…」 「で、落ち込んでんのか。初めて会う客?」 「うん。新規のお客様」 「んじゃ、まだまだこれからだろ。雑談、大事だぞ。相手の人柄を知るヒントがいっぱいだからな。門前払いくったわけじゃないんだし、んな落ち込むなよ」 「落ち込んではいないんです。ちょっと難しそうな人で、気疲れしちゃったのかも……。暁さんの声、すごく聞きたくなって…」 電話の向こうが急に静かになり、雅紀はあれ?っと首を傾げた。 「暁さん?」 「おまえな~。そんな切ない声で、殺し文句はよせって。ドキッとしちまっただろ」 「へ?殺し……文句?」 暁は電話の向こうでため息をつくと 「そうだった。おまえ、無自覚な小悪魔ちゃんだったっけ」 「は?誰が小悪魔…」 「まだ途中なんだろ?寄り道してないで、早く帰ってこいよ。ぎゅ~って抱き締めて、頭なでなでして、いっぱいチュウしてやるからさ」 「や、いいです。遠慮します」 「いや、遠慮すんなって」 「もう帰ります。声聞いてたら、今度は顔見たくなってきたし…」 「俺もだよ。じゃあな。会社まで気をつけて運転しろよ」 相変わらずの暁節を聞けて、雅紀はようやく得体の知れない不安から解放されると、コンビニの駐車場を出て、急いで会社に戻るため車を走らせた。

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