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月のない夜に5
「んじゃ。終わったらまたラインしろよ」
昨日と同じ場所に車を停めると、暁はにこにこしながら、雅紀に向かって唇をつき出す。
「……」
助手席の雅紀は微妙な表情で、暁から身体を離した。
「おい。何その顔……っつかなんで嫌そうに逃げてんだよ」
「や、その口の意味が分かんないです…」
「は?分かれよ。行ってきますのチュウしろってサインじゃん」
「……サインって……。や、しないですよ。ここ駅前大通り。通勤中の人、いっぱい歩いてますから」
「お。そういうこと言うんだ?昨日はちゃんとしただろー」
雅紀はちょっと赤くなって、ふいっとそっぽを向くと
「あれは……不意討ちでしょ?」
暁は不貞腐れ顔で
「おまえだって、ただいまのチュウはしたじゃん」
雅紀は赤い顔をして、暁の方をちらっと見る。暁はにやっと笑うと、また唇をつきだした。
雅紀はまわりを見回すと、暁の口に素早くチュッとしてから、鞄をひっつかみ、ドアを開ける。
「行ってきますっ」
満足そうにニヤついている暁に、真っ赤な顔であっかんべーをして、走って会社のあるビルに駆け込んだ。
「くく……可愛いっつーの…」
暁はその後ろ姿を見送ってから、車をスタートさせた。
「あの……狩谷課長……これは……?」
外注業者との打ち合わせを終えて、自分の席につくなり課長に呼ばれ、応接室に舞い戻った雅紀は、テーブルに置かれたプレゼント用の箱と、課長の顔を交互に見比べて、戸惑っていた。
「さっき瀧田氏の秘書が持ってきたんだ。篠宮、お前宛に贈り物だそうだ」
そう説明してくれる狩谷自身が、困惑した表情を浮かべている。
「はぁ。俺に贈り物……ですか」
「今日の夕食会用の正装だそうだ」
「……正装……ですか……?」
狩谷は首をすくめ、
「そんな顔で見られたって、俺だって知らんよ。とにかく開けてみろ。約束は午後4時だったな?それを着て出席してくれだと」
雅紀は箱に視線を戻すと、
「普通の夕食に招待されただけだと思ってました…」
リボンをほどき、箱を開けて、仕立ての良さそうなタキシードが入っているのを見て、更に眉をしかめ
「ドレスコードってことですかね……課長…」
狩谷も箱の中をのぞきこみ
「礼装一式……だな。かなり上等なものなんじゃないか?……こっちの箱はたぶん靴だろう」
「仕事を頂く立場の俺が、こんな高そうなもの、貰えないですよ…」
狩谷はため息をつき
「とりあえず、先方から指定されたんだ。着ていくしかないだろう」
雅紀は箱から恐る恐るタキシードを取り出した。
服飾などに詳しくはない雅紀でも、これが安物じゃないことは分かる。
手触りの良い上質なカシミアの、深みのある黒のジャケットは、拝絹つきのショールカラーで、スラックスは、同じ生地で側章が脇に入っている。黒のカマーバンドと黒の蝶ネクタイ。ポケットチーフに、黒絹の靴下。ドレスシャツも入っていた。小さい箱の方には美しい光沢の、これまた高級そうなエナメル靴。
「こんな本格的なタキシードなんて……着たことないです、俺」
ため息をつく雅紀の肩をポンと叩き、
「お前が恥かかないようにっていう、先方のご配慮だろう。ありがたく受け取っておけ。ああそれと、部長がな、当分はお前、瀧田氏に張りついてろって。他の仕事は俺や佐武がフォローするから。直行直帰でも構わんそうだ」
「……わかりました…」
力なく答えた雅紀を残し、狩谷はそそくさと応接室を出ていってしまった。
「これ……着こなせるのかな……俺。なんかコスプレみたいになっちゃいそうだけど」
独り言を呟くと、雅紀はもう一度、はあっとため息をこぼした。
午後3時に社用車で会社を出た。仕方なく身につけた礼装は、若干大きめだったがそれほど違和感はなかった。靴はピッタリで、何でサイズが分かったのだろうと、ちょっと不思議だったが。
社を出る時に、先輩の杉田とすれ違い、唖然とした顔をされた。雅紀は苦笑して会釈だけすると、逃げるように駐車場に向かった。
……やっぱ変かな……童顔だから似合わないよな……。ひょっとしてレイヤーみたいになっちゃってる?
着なれない服装に居心地の悪さを感じながら、雅紀は瀧田のセカンドハウスに向けて、車を走らせた。
約束の時間の15分前に、門の前に車を停めると、今日は呼び鈴なしで、門がするすると開いた。雅紀は緊張に顔をひきつらせたまま、昨日の帰り際に言われた通り、車のまま敷地に入る。駐車場に車を停め、深々と深呼吸してから、意を決して車を降り、建物脇のアール型の階段をあがっていく。
ルーフバルコニーには、瀧田が立っていた。同じくブラックタキシードで、長身で細身の瀧田に、その装いはおそろしく似合っている。雅紀は自分の格好にますます居心地の悪さを感じながら、瀧田に歩み寄り一礼した。
「本日は夕食会にお招き頂き、有り難うございます」
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