90 / 359

第26章 月下の宴1

顔をあげた雅紀に、瀧田はにこやかな笑みを浮かべ 「ああ。なかなかいいですね。イメージ通りだ。……ちょっと失礼」 瀧田はそう言って雅紀のすぐ前に歩み寄ると、すいっと優雅な手つきで蝶ネクタイの曲がりを直し、一歩下がって上から下まで眺めると 「うん。いいでしょう。完璧です」 満足そうにひとりごちて、くるりと踵を返し、奥の扉へと歩き出した。雅紀はその後ろ姿をぼんやり見送りかけて、はっとして慌てて後を追う。 「あのっ。すみません。こんな高価なもの、ご用意頂いて…」 「いえ。オーダーメイドできちんと誂えたかったんですが、まあ、今日のところはそれでいいでしょう。さあ、どうぞ」 瀧田は重たい扉を厳かに開く。雅紀は中に足を踏み入れて、思わず息を飲んだ。 ……え……何これ……え……? 昨日訪ねた時は、見事なほどに何もなかったフロアが、まるで魔法でもかけたように様変わりしていた。 突如目の前に出現した、映画のワンシーンのような光景に、雅紀は茫然と立ち尽くした。 「こちら、アペリティフでございます」 給仕の言葉に、雅紀は首を傾げ 「アペリ……?」 「アペリティフ。食前酒のことですよ」 はるか前方から、瀧田に穏やかに話しかけられて、雅紀は視線を給仕から瀧田に移し 「あ、食前酒…」 「そう。それはキール・インペリアル。シャンパンにフランボワーズリキュールを加えたカクテルです」 「あ、はい…」 場の雰囲気だけで、もはやキャパオーバーな雅紀は、瀧田の口から飛び出す言葉に、曖昧に相槌をうちながら、テーブルに置かれたグラスを見つめた。 「あまりお酒は強くないと、聞いてますからね。リキュールを多めにしています」 雅紀は再び瀧田の方を見て、少し顔を赤らめると 「お気遣い、ありがとうございます」 礼を言って、フルートグラスに手を伸ばした。 「そんなに固くならないでください。ここには君と私しかいないのですから」 ……や、それは、無理ですっ。 雅紀は震える手でグラスを持ち上げて、心の中で突っ込みを入れていた。 足が沈みこみそうな、ふかふかの絨毯。どっしりとした刺繍入りのカーテンで仕切られた広間。ロイヤルブルーの高級そうなテーブルクロスに覆われたテーブルは、向かい合って座っているのに、相手との距離がありすぎる長さだ。しかも給仕が数人いる以外は、瀧田と2人きり。どうぞ緊張してくださいと言わんばかりの演出だった。 雅紀は曖昧に笑みを浮かべると、瀧田が優雅に持ち上げたグラスに合わせてグラスをかかげ、一口飲んで噎せた。慌ててナプキンで口を押さえる。 瀧田はその様子を楽しそうに見ながら、給仕に合図した。給仕たちは心得た様子で、前菜の皿を2人の前に運んでくる。 「篠宮くん。君は年齢よりも若く見られるでしょう」 ようやく呼吸を整えた雅紀は、皿を置いてくれた給仕に軽く頭をさげ、再び瀧田の方を見て 「あ、はい。私服だと大学生に間違われることもあります」 「でしょうね。その魅力的な大きな目のせいかな。整った顔立ちなのに、可愛らしく見えてしまいますね」 瀧田の言葉に、雅紀は面映ゆげに目を伏せた。若く見られるのも、可愛い顔と言われるのも慣れっこだが、仕事相手に面と向かって言われると、正直凹む。 「私の友人に、君のことをよく知っている男がいるのです。彼から君の話を聞かされて、前から1度会ってみたいと思っていたのですよ」 「あ……そうなんですか?あの……どなたでしょう?私が以前担当させて頂いたお客様でしょうか?」 雅紀の質問に瀧田は首を傾げ 「さあ……どうでしょう」 答えを濁し、にっこり笑うと 「さ。どうぞ召し上がれ。お口に合うといいのですが」 促され、ちょっと腑に落ちない気分のまま、雅紀はナイフとフォークを手に取った。 口当たりはいいが飲み慣れない酒に、少し酔ったのかもしれない。 食前酒の後、アルコール度数が低いから大丈夫だと、瀧田がすすめてくる酒を断りきれず、食事をしながら飲んでいた。 料理の味は正直よく分からなかった。食べ慣れないフランス料理のフルコースだったせいもあるが、緊張し過ぎていたせいもある。 その緊張を紛らわそうと、思ったより酒を飲み過ぎていたのかもしれない。 お客様に招待された食事会で、酔っ払ってしまうなんて大失態だ。 雅紀は妙にぐらつく頭を手で押さえながら、内心かなり焦っていた。 ……とりあえず、洗面所を借りて少し酔いを冷まさないと……。 食事は既に終えている。トイレを借りても失礼にはならないだろう。雅紀は意を決して 「あの。瀧田さん。ちょっと…」 「うーん。その呼び方はなんだかよそよそしいですね。総一、と呼んでみてください」 「え?あ、はい?あの」 「総一。私の名前です」 「あ。それは存じ上げておりますが…」 「では、どうぞ」 ……や……どうぞって……え?

書籍の購入

ともだちにシェアしよう!