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番外編『愛すべき贈り物』184
智也は隣に腰をおろすと、ガラスのティーポットの中で、とろりとした色になった紅茶を、ゆっくりとカップに注いだ。アールグレイ独特のコクのある華やかな香りが、ふわっと立ち上る。
智也の手元を黙って見つめていた祥悟が、くんくんと鼻をうごめかせた。
「それ、あそこの葉っぱ?」
「うん。君の好きなやつ。切れてたからちょうど今日、また買いに行ったんだ」
「やっぱ香りが違うのな。外で飲むのよりさ、智也の紅茶のが絶対に美味いし」
祥悟はカップを持ち上げて、満足そうに鼻をひくひくすると、ひとくち啜った。
「それで、あそこを辞めて、これからどうするの?」
声が震えないように、智也はなるべく何気ない感じで切り出した。
「んーとさ。しばらくは何にもしねえ……かな。正直、金はいっぱい稼いできたし、当分遊んで暮らせるぐらいあるからさ」
「……そう。そうだね。君は今まで働き過ぎだったから、少しゆっくりするのもいいかもしれない」
「まあな。半年ぐらいのんびりしてさ、あちこち旅して、自分のやりたいこと探してみようかなって思ってんの。俺、ガキの頃からずっとあの世界しか知らねえし」
智也はカップを置いて、祥悟の顔を見つめた。
「独立じゃなくて引退? 今の仕事自体、辞めちゃうのかい?」
祥悟はふっと口の端をあげた。
「いろいろあってさ。それが今の事務所辞める条件。橘のおっさんの目が黒いうちは、あの業界には俺、近寄れねえかも」
智也はすっと目を細めた。
「それは……酷いな。独立話、潰されたってことかい?」
「いーや。こっちから引導渡してやったんだよ。あいつは俺を一生飼い殺しにしたかったみたいだけどな。今、ツテ使ってある方面から、圧力かけてもらってるとこ。ま、そっちはまだしばらく、ごちゃごちゃするかもな」
智也はじっと祥悟の目を見つめた。その目に、さっき打ち明け話をしてくれた時の、頼りなげな揺らぎはない。
「勝算あり、かな」
「当然。俺、勝ち目のない戦いはしない主義だし?」
さっき泣いたカラスがもう笑ってる。智也は苦笑して
「そうだね。君なら大丈夫だね」
祥悟は勝気な顔でにやっと笑ってみせて、また紅茶をひとくち啜り、カップを置いた。
「でさ。おまえに、話があんのな。聞いてくれるか?」
……っ。いよいよきた……。
ぎくっとして、その動揺を誤魔化す為に、智也はそっと目を伏せた。
祥悟が今日、ここに入ってきてからずっと感じていた予感。
彼は自分に何か話したがっている。決定的な何かを。
心臓が早鐘のように鳴る。胸の奥がきゅっと冷えて痛い。
ああ。神様なんて信じちゃいないけど、今この時だけは祈らずにいられない。
……嫌だよ。祥。俺を置いて去って行かないでくれ。
何の進展も望んではいなかったけど、ただ時折こうして会えるだけでよかった。たまに傷ついた羽根を休めに来てくれるだけでよかった。
……でも祥は、飛び立とうとしてる。新しい未来に向けて。
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