176 / 377

傷痕4

「ね。暁さん、やめて。そんなの藤堂さんの冗談に決まってるから」 2人を交互に見つめて、雅紀は赤くなったり青くなったりしている。藤堂は首をすくめて 「都倉。篠宮くんが困っているぞ。この話は今夜改めて、酒の席ででもじっくり話そうか」 「今夜は19時に人と会う約束があるんで、その後ならゆっくりお相手しますよ」 不敵な笑みを浮かべ、キメ顔をした暁の頭を、雅紀は後ろからパコンっと叩いた。 「いってーっ。ってこらっ。何すんだよっ」 「暁さんのばかっ。誰でも彼でも喋りまくって~。その口ほんとに縫い付けてやるからっ」 2人のやりとりに藤堂は大声で笑い始めた。 「いやいや。仲がいいな。残念ながら俺の入る余地はなさそうだ。……ところで。なあ、都倉。こないだも話した件だがな。いい返事は聞けそうか?」 急に真顔になった藤堂に、雅紀はもじもじと暁の隣に座り直した。暁も神妙な顔つきになり 「いえ。まだ全然、考えてる暇がなかったんで」 「いいんだ。急ぐ必要はないよ。7年も待ったんだ。じっくり考えて充分納得した上で、返事をくれればいい」 何の話なのか分からず、雅紀は首を傾げて2人の顔を見比べている。 「こないだも言いましたけど、俺は都倉秋音であって都倉秋音じゃない。藤堂さんのご期待に添える自信は正直ないですよ」 「……記憶はまったく戻らないか?断片的にでも思い出すことは?」 暁は自嘲気味に笑って 「ここまで思い出せてないってことは、全く思い出せないままか、一気に全て思い出すか、どっちかでしょうね」 藤堂は眉をしかめて暁を見つめていたが、やがてふっと笑って 「知識ならばこれからの努力で積み重ねていけるよ。俺が都倉に期待していたのはセンスや感性だ。そういうものは努力だけで得ることは出来ないし、たとえ記憶を失っても無くなってしまうものじゃないと、俺は思ってる」 自信に満ちた藤堂の言葉が、嬉しくもあり悔しくもある。暁は複雑な気分でため息をつき 「前向きに考えてみますよ。出来れば完璧に都倉秋音に戻って、いい返事をしたいですけどね」 昔のようにこの事務所で働かないかと、藤堂は暁に持ちかけているのだ。 雅紀は話の内容が分かって納得すると同時に、ショックも受けていた。暁がここで働くということは……。 「それでね。篠宮くん。君にもちょっと考えて欲しいんだよ」 急に矛先が自分に向いて、雅紀は驚いて藤堂を見つめた。 「え……?……えと、俺、ですか?」 藤堂は両手を組んで微笑むと 「そう。君だ。君は今の仕事に満足しているかい?」 「え。あの………」 今の仕事。それを考えると、思い出したくない記憶が蘇ってくる。瀧田のセカンドハウスで過ごした忌まわしい時間……。 みるみる青ざめていく雅紀に、暁ははっとして雅紀の肩を掴み 「藤堂さん、悪いけど今ちょっと、雅紀に仕事の話は…」 2人の表情に何かを察したのだろう。藤堂は手を振ると 「ああ。悪かった。唐突すぎたな。俺の悪い癖なんだ。思いつくとすぐに言ってしまう。都倉がもしここに来てくれるなら、篠宮くんも是非一緒にと、そう思ったんだが…」 暁はちょっと難しい顔になり 「俺だけでなく、雅紀まで誘う目的は何です?」 「そんなに警戒しないでくれよ。個人的な意味合いは全くないんだ。篠宮くんには都倉のサポートをして貰っていたんだがね。学生アルバイトとは思えない、とてもいいセンスを持っていた。建築デザインの仕事もすごく気に入っていたようだしね。突然辞めると言い出した時は、本当に残念だったんだ。卒業前に大学に問い合せた時には、既に中退してしまった後でね」 暁は真摯な眼差しの藤堂に、下心はないと判断して警戒を解いたが、いずれにしろ今の雅紀に会社の話は鬼門だ。 「藤堂さん。分かりました。すごくいいお話だと俺も思う。ただ、今はまだ……。考えさせてください。俺も雅紀も。いろんなこと、考えて答えを出す為の旅なんです。2人でよく話し合ってみますよ」 「そうだね。じっくり考えてみてくれ」 雅紀は藤堂の顔を、こわばった表情で、でも必死に微笑んで見つめ、無言で深々と頭をさげた。それが今の自分に出来る精一杯だった。 次の用件が済んだらまた連絡をすると言って、とりあえず2人はオフィスを後にした。 雅紀の顔色が冴えないのが気になって、暁はぶらぶら街を歩きながら 「な。腹減ってきたろ。なんか食おうぜ」 明るい声音で話しかけてみた。雅紀は俯きがちの顔をあげて 「うん。どっか入りましょう。暁さんの計画では、お昼はどこで食べる予定?」 「うーん。牛タンの店に行くつもりだったけどさ、別におまえが食べたいもんでいいぜ~俺は」 「牛タンかぁ……。ここからだと牛兵衛が近いけど。行ってみます?」 まだ無理をしているような、雅紀の微笑みがせつない。

書籍の購入

ともだちにシェアしよう!