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傷痕9
「生死の境を彷徨って、意識を取り戻した時には、それ以前の記憶を全て失くしていたんだ」
坂本は愕然とした表情で暁をじっと見つめ
「じゃ、覚えていないのか。何も?俺のことも、思い出せないか?」
「……すまない。残念ながらまったく」
坂本はしばらく呆然と暁を見つめていたが、やがて詰めていた息を吐き出し
「そうか……だから小野寺が変なことを言ってたんだな。それで、原因になった事故って、もしかして車か?」
「ああ。車にはねられて、崖下に転落しかけた。途中の岩場に引っかかったのを救助されたんだ。ひき逃げで、犯人は結局見つかっていない」
「ひき逃げ……か。詩織さんの時と同じだな」
坂本は険しい顔で考え込み始めた。暁はコーヒーのカップを持ち上げかけて、横にいる雅紀の視線に気付き
「コーヒー、冷めないうちに飲めよ。美味そうだぜ」
安心させるように笑いかける。雅紀はコーヒーに視線を落としてから、再び暁を見つめ
「仇って……どういうこと?暁さん。詩織さんって秋音さんの奥さんですよね。ひき逃げ……暁さんも、ひき逃げだった……。…っまさか同じ犯人…っ?」
「ほれ、深呼吸な。落ち着けよ。まだ何も分かったわけじゃない」
「でもっ」
「俺は都倉からその話を聞かされた時、正直、半信半疑だったんだ。身重の奥さんを亡くしたばかりで、混乱していただろうし、いろいろ疑心暗鬼にもなっていたろう。仕事を辞めて真相を探ると言い出した時も、バカなことはするなと止めた。だが……都倉、おまえの決意は固かった」
重々しい坂本の口調に、雅紀は言葉を飲み込んだ。暁はコーヒーを一口飲むと、神妙な顔で頷き
「ただの思い込みだったのか、何か根拠があったのか……。今の俺の頭では分からないな」
「根拠……ということではないが、おまえが探ろうとしていたのは、奥さんの事故のことだけじゃなかったように思うな」
何か思い出そうとするように遠くを見る坂本に、暁は身を乗り出し
「どうしてそう思った?俺が何か言ってたのか?……頼む、坂本くん。どんなささいなことでもいい。当時、俺が話したこと、気にしていたこと、思い出してくれ」
坂本は無言で首を捻っていたが、ふいに暁をまっすぐ見つめ
「達哉だ。坂本くんではなくてな。おまえのことは秋音って呼んで構わないだろう?」
「あ……あ~もちろん」
にこやかに手を差し出され、暁は戸惑いながら坂本の手をぎゅっと握った。
「お帰り、秋音。たとえ記憶をなくしていても、おまえは俺の大切な親友だ。あの時、おまえを無理にでも引き止めなかったことを、俺はずっと悔やんでいたんだよ。無事に再会出来て……よかった」
しみじみと言われ、力強く手を握り返されて、暁はちょっと照れくさそうに笑った。
自分の本当の名前が分かっても、無事を喜んでくれる家族はいない。仕方ないことだと諦めてはいたが、寂しい気持ちがなかったわけじゃない。だが、藤堂も坂本も自分の帰りを待っていてくれたのだ。都倉秋音は友人には恵まれていたらしいと分かって、ほっとしていた。
髭のオーナーが坂本の注文したブレンドコーヒーを、そっとテーブルに置いていく。坂本はカップを持ち上げ一口飲むと
「さっきのことだがな、おまえが何度か、気になることを言ってたのを思い出したよ。誰かにつけられているような気がする、ってな」
「つけられて……?」
「ああ。高校の頃に……いや、大学時代にもあったな。それと、お母さんが事故で亡くなった時も、おまえは妙なことを言っていた。事故はお母さんの居眠り運転が原因って結論になったんだ。でもおまえはまったく納得してなくてな、ブレーキの調子が悪かったのが、本当の事故原因だと言い続けていた」
「ブレーキの調子…」
「ああ。車はカーブを曲がりきれずに電柱に突っ込んだ後で、川に落ちて大破した。事故後の検証では、ブレーキ部分の不具合までは分からなかったんだ。道路にはブレーキ痕はなかった。民家の少ない山道で目撃者はいない」
坂本のもたらす情報がいったい何を意味するのか。
暁は混乱しかける頭を整理するために、一度ゆっくりと深呼吸してから
「達哉、ちょっと待ってくれ。すると都倉……いや、俺が探ろうとしていたのは、妻の事故の件だけじゃなくて、母親の事故に対しても何か疑っていたってことか。いや……それだけじゃないな。俺自身が誰かにつけられてると感じていたってことは…」
「お母さんの事故があった日、おまえはバイトが長引いて、乗るはずだったお母さんの迎えの車を断って、俺と一緒にバスで帰ったんだ。もしいつも通り車に乗っていたら、お前も一緒に事故に遭っていただろうな」
「つまりそれは…」
「おまえが向こうでひき逃げに遭ったことが、もし偶然ではないのなら、お母さんの事故や詩織さんの事故も、おまえを狙ったものだという可能性がある」
雅紀が細い悲鳴のような声をもらす。暁はたまらず両手をあげた。
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