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おれの知らないきみ3
このところ、ほとんど吸っていなかった煙草が無性に吸いたくなり、雅紀は喫煙所の表示を見て、病院の裏手の小さな休憩スペースに向かった。
4つ向かい合わせに置いてある、古い木のベンチの一番端に腰をおろし、ポケットから煙草を取り出して、ぼんやりと空を見上げる。
午前中あれほど綺麗に晴れ渡っていた空は、真っ白な雲に覆われていた。
煙草を一本取り出して口に咥え、暁からもらった2つ折のマッチを開き、1本外して火をつけようとした。カシュっと音がするだけで、火はつかない。2本目もダメだった。3本目でようやく火がついて、煙を深く吸い込み吐き出した。
久しぶりに吸ったせいか、ちょっとくらくらする。
背もたれに身をあずけ、空を見上げたまま、しばらく煙草を吸いながらぼんやりしていた。
考えなければいけないことが多すぎる。
さっきは病室に藤堂と田澤が戻ってきて、藤堂にお礼を言ったり見送ったりとバタバタしたせいで、落ち着いて考える暇がなかった。
暁の……いや、都倉秋音の本当の名は……桐島秋音。
田澤の口からあれほどハッキリ聞かされたのに、まだ信じられない。
そんなバカな……と思ってしまう。
まるで何かに導かれるように、自分と出会ってしまった秋音と貴弘。
あの2人が兄弟だったなんて。
そんなバカみたいな偶然の悪戯……あり得ない。
秋音に恋した自分は、その面影を貴弘に見たのだろうか。でも、あの2人は全く似ていない。
ただ、知らなかったとはいえ、自分はあの2人と身体を重ねてしまった。その事実は消せない。
暁は……もしかしたら苦しんでいたのだろうか。
母親や妻を死に追いやったかもしれない兄の、愛人だった自分と、関係を持ってしまったことを。
だから、自分に桐島の名前を告げることを、躊躇っていたのだろうか。
ずっと先の夢を、ともに生きる未来を、嬉しそうに話してくれた暁は、目が覚めたらまた、自分に屈託なく笑いかけてくれるだろうか………。
ふいに、脇に置いていたスマホが、着信を告げる。
相手の名前は田澤。
雅紀はスマホを掴んで立ち上がり、病室へと急いだ。
雅紀が急いで病室のドアを開けると、3人が一斉にこちらを見た。どの顔にも戸惑いの表情が浮かんでいる。
「あの、暁さん、目が覚めたんですか?」
雅紀はベッドに駆け寄ると暁の顔を見た。
暁は目を開けて、じっとこちらを見返している。
「ああ、目は覚ましたんだがな、どうも様子が…」
田澤が困惑した声でそう言った時、雅紀を見つめる暁の表情に変化があった。
「暁さん?」
暁は何かを思い出すような遠い目をしてから、ぎこちなく頬をゆるめると
「……篠宮……?……雅紀。……ああ、おまえ、雅紀か。久しぶりだな。ちょっと見ないうちに、随分大人っぽくなったじゃないか」
「あきら……さん……?」
雅紀の目が見開かれていく。暁は戸惑った様子で、周りを見回し
「ここって、病院か?俺、どうしてここに?それと、あの人たちにも言われたんだけどな。暁って……誰のことだ?」
「おそらく、頭を打ったことで、もともと失っていた記憶が戻ってきたということだろうな。ただ、逆に記憶を失っていた間の記憶が、一時的にだろうが、抜け落ちてしまったんだろう」
「一時的に……?じゃあ、その記憶もいずれは戻るんですね?」
医師は難しい表情になり
「絶対に戻る、と断言は出来ないよ。戻る可能性はあるが、何かのきっかけで突然かもしれないし、徐々にかもしれない。まったく戻らない、という可能性もある」
田澤は腕を組み、苦い顔でため息をついた。
暁は麻酔がまだ完全に抜けたわけではなかったようで、あれからまたすぐ、うとうとと眠りについた。
医師と田澤たちが話している声は、雅紀の耳にはただの音として響き、意味を成さないまま通り過ぎていく。
暁に、秋音だった頃の記憶が戻ってきた。
それはとても、嬉しいことだ。
自分の頭をポンコツだと自嘲気味に嘆いていた暁が、ちゃんと記憶を取り戻せたのだ。
一緒に喜んであげたい。
でも、彼はその代償に、暁の記憶を差し出してしまった。
つまり、今の暁は、都倉秋音。
秋音にとって篠宮雅紀は、ただの後輩の1人。
篠宮雅紀を好きだと、愛していると言って、恋人として慈しんでくれた早瀬暁は、もういないのだ。
自分はどうするべきなのだろう。
このまま、暁の恋人として、暁の記憶が戻るまで、秋音の側にいてもいいのだろうか。
もともと、暁は自分とそういう関係になるまでは、ストレートだった。
暁が暁でなくなった今、無理に暁としての記憶を取り戻させて、自分の恋人でいさせるよりも、都倉秋音として生きた方が、普通の人生を歩むことが出来るのではないか。
いや、それ以前に、秋音である彼が、男の自分のことを、恋人だったと認めるのは難しいだろう。
だとしたら、秋音に余計なことは告げず、自分とのことはなかったことにして、彼から離れた方がいいのかもしれない。
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