219 / 377

過去からのいざない2

新幹線の車窓から、ぼんやりと外を見つめる。 行きにあんなに輝いて見えた景色は、今は色褪せてしまっていた。暁が側にいないだけで……。 ……ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。 頭に浮かぶ言葉はそれだけだった。 怪我が治るまで、側に居られなかった。黙って逃げてきてしまった。暁は何度も電話をくれたのに、出る勇気がなかった。しまいには電源を切って無視した。 自分のやってることが、むちゃくちゃなのは分かってる。何も知らない暁に対して、酷いことをしていると自覚している。 それでも、仙台には居られなかった。あのままあそこに居たら、過去の記憶に飲み込まれる。心が壊れてしまう。 強くなって、優しくなる。暁さんみたいに。 そう心に誓ったはずなのに、やっぱり自分は意気地なしの駄目な人間だ。仙台に行って、自分の過去に向き合うどころか、全て放り出して逃げてしまった。 パニックがおさまってだんだん冷静になってくると、次に襲ってきたのは激しい自己嫌悪だった。過去のトラウマから、どうしても逃れられない自分。暁がせっかくくれたチャンスだったのに。 兄の愛人だった自分との関係を、おそらくは悩んでいただろう暁。でも彼は、そんなこと少しも感じさせない、深い優しさと愛情で自分を包んでくれた。 臆病になっていた自分の心を、柔らかく揺らしてくれた。その暁に自分が恩返し出来ることといったら、やっぱり暁の命を守ることしかない。 電話を切ってからしばらく、暁は呆然としていた。 言い渋る田澤に、何回も懇願して聞き出した話。 『お前から聞かされていたことだけだけどな』 そう田澤が前置きをして、躊躇いながら話してくれた、予想もしていなかった衝撃の事実。 雅紀はゲイで、自分の兄、桐島貴弘の愛人だった。 別れ話のもつれから、貴弘にストーカーされていて、自分が記憶の断片で見た痩せこけた雅紀の顔は、おそらくそのストーカー被害で、精神的に追い詰められていた時のものだろう。 自分が貴弘に依頼を受け、仙台で都倉秋音の調査をしている間に、雅紀は貴弘の罠にはまって、貴弘の従兄弟、瀧田総一の屋敷に監禁された。 調査対象の都倉秋音が自分だったということに気づき、仙台から戻って瀧田の屋敷に乗り込み、雅紀を助け出した。雅紀はその時瀧田と貴弘に、酷い性的行為を強要されていた。そしてどうやら雅紀は、過去に仙台でも、何か事件に巻き込まれトラウマを抱えていたらしい。 『篠宮くんの過去のトラウマについては、俺もお前からそう詳しく聞いてたわけじゃねえんだ』 そして何よりも重要な事実。 自分は向こうで偶然、雅紀と出会い、恋に落ちた。 早瀬暁にとって雅紀は、誰よりも愛おしい存在。 一生大切にしたいと誓った大事な恋人だったのだ。 そして、雅紀が遠くにいるけど大切な恋人だと言っていた相手は他の誰でもない、自分のことだった。 『篠宮くんは、記憶をなくしたお前がそのことを知ったら混乱するから、黙っていてくれと言っていたんだ。折を見て自分から話すってな』 そんなバカなと、大声で叫びたかった。 これほど大切なことを、自分は事故とはいえ、忘れ果ててしまっていたのか。 ずっと側で見守ってくれていた雅紀は、どれほど苦しかっただろう。知らなかったとはいえ、自分の言動は雅紀を傷つけ続けていたのだ。 「なんてことだ……」 記憶をなくした直後にこんな話を聞かされたら、たしかに自分は混乱したかもしれない。 けれど、教えて欲しかった。せめて自分と雅紀が恋人だったということは、知っておきたかった。 暁はスマホを持ち上げ、電話の履歴を見た。 雅紀の電話番号にかけてみる。通じない。 恋人のことを忘れてしまった薄情な自分に、雅紀は愛想をつかしてしまったのだろうか……。 自分は雅紀とどんなことを話していただろう。 今日は何を話した?昨日は?その前は? 何か雅紀を決定的に傷つけるようなことを、自分は言ってしまっていただろうか……。 さっき感じた得体の知れない胸騒ぎは何だ? 今も続いているこの嫌な感じは? 抜け落ちてしまった記憶の中に、きっとそれを知るための鍵がある。 時計を確認した。もう15時を過ぎている。 雅紀に何かあったのは、間違いない。 暁は電話帳の藤堂の番号を呼び出し、ダイヤルした。 暁にもらった合鍵で、アパートのドアを開けた。 数日閉めきりだった部屋は、空気が重く淀んでいる。 雅紀はふらふらと玄関にあがり、キッチンを通り過ぎて、部屋のふすまを開けた。 こもった空気の中に、懐かしい暁の匂いを感じた。 ここは暁と初めて結ばれた大切な場所だ。 夢のように過ぎていった幸せな時間の記憶が、ふいに次々と甦ってきて、雅紀は静かに涙を溢した。 ……暁さん……。暁さん。暁さん。暁さん……。 「大好き……暁さん……」 雅紀は独り呟くと、押し入れを開けて、暁がよく自分に着せたがった大きなシャツを取り出し、ぎゅっと抱き締めた。

書籍の購入

ともだちにシェアしよう!