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第54章 泡沫の恋人1
「雅紀、ちょっと横になってもいいか?」
一緒にキッチンに立ち、夕飯の作り方を教えてくれていた秋音が、ふいに顔を歪めた。雅紀は慌てて包丁を置き、手を洗って布巾で拭いて、秋音の額に手をあてた。
「……っ。少し熱っぽいかも。ごめんなさい、俺気づかなくて…っ」
「いや、大丈夫だ。ちょっと頭痛がするだけだから」
雅紀は頭を押さえる秋音に手を貸して、部屋の方に連れて行くと
「待ってて。今、布団敷くから」
秋音をソファーに座らせて、窓際に畳んでおいた布団を大急ぎで広げた。シーツは新しいものに替えて、ソファーの方を振り返ると、相当痛むのか、秋音は頭を抱えて項垂れていた。
「秋音さんっ。そんなに痛い?病院、行った方が…」
「大丈夫だ。少し横になれば治まる」
秋音は安心させるように微笑むと、雅紀の肩を借りて布団に横たわった。雅紀は顔を強ばらせ
「俺っ、氷枕持ってきますっ」
焦ったように立ち上がり、キッチンに向かった。
……そんなに慌てなくても大丈夫だ。焦って怪我なんかするなよ。
そう声をかけてやりたかったが、急激に襲ってきた眠気に引き込まれ、秋音は気を失うように眠りにおちていった。
……どうしよう……。救急車…呼んだ方がいいのかな…。
氷枕で冷やしながら、頭の傷をみてみたが、もう塞がっていて傷口が開いた様子はない。でも内出血を起こしていたら自分には分からない。
熱はそれほど高くはなかったが、眠る前に秋音が見せた痛みに歪む顔が、雅紀の焦燥感を煽っていた。
……紹介状なんか後にして、今日、病院に連れて行くべきだった。何やってるんだよ、俺…っ
秋音に万が一のことがあったら……。そう思うといてもたってもいられない。
……っそうだ。田澤さんに、電話で相談して…
テーブルの上のスマホを取ろうと、雅紀は秋音の横から立ち上がりかけた。
「どこ、行く?」
ふいに秋音の手が伸びてきて、腕を掴まれた。雅紀は息を飲んで秋音を見下ろし、その場にしゃがみこんで顔をのぞき込む。
「秋音さんっ。頭は?まだ痛む?!」
泣きそうな顔で問いかけてくる雅紀に、秋音はにやっと笑ってみせて
「ばーか。んな顔すんなって。大丈夫だよ。もう全然痛くないぜ」
「でもっ。やっぱり病院行きましょうっ。俺、車まわしてくるからっ」
再び焦って立ち上がろうとする雅紀を、秋音は身を起こしながら、ぐいっと引き寄せた。
「いいって。それよりようやく出れたんだぜ。おまえの顔さ、よーく見してくれって」
秋音は、雅紀の青ざめた顔をのぞき込むように見て
「雅紀、笑えよ。んな辛そうな顔すんな」
「……あき、と……さん……?」
秋音は笑っている。もう頭は痛くないらしい。
……違う!そうじゃない。この表情は…この喋り方は…
「……暁……さん……?」
戸惑う雅紀の呼びかけに、暁はにやりと笑って
「正解だ。おまえ、なかなか鋭いじゃん」
雅紀は丸い目を更にまあるく見開いて、言葉もなく暁を見つめた。暁は腕を伸ばして、雅紀の頭をわしわしと撫でて
「大丈夫かー?そんなに見開いてると零れ落ちちまうぜ、目ん玉」
「……っ。あき…っ。暁さ……っ。あ、暁さん……っ」
雅紀は顔をくしゃっと歪めて、暁に抱きついた。暁は笑いながら雅紀の身体を抱きとめ、ぎゅうっと抱き締める。
「でっかい子供みたいだな。甘えん坊め」
「暁さんっ、記憶っ、記憶戻った?」
「んー……。まあな。こうしておまえを直接感じれるのは久しぶりだ。事故の後は悪かったな。おまえにかなり辛い思いさせちまってさ」
雅紀は腕の中でもがいて顔をあげ、目を大きく見開いてじーっと暁を見つめた。暁は目を細めて笑い
「相変わらずでっかいなぁ、おまえの目。それに相変わらずの泣き虫か。ほら、涙ぽろぽろだ」
暁は苦笑しながら、雅紀の目元を拭い
「言ったろ?おまえの涙は綺麗だけど、見てるとせつなくなるんだよ。ほれ、笑ってくれって。やっと会えたんだぜ」
雅紀は顔を歪めながら必死に笑ってみせて、ごしごしと目元を拭った。
「暁……さん」
「んー?なんだ?」
「記憶が、戻ったって……こと?……ってことは今度は…秋音さんが消えたの?」
雅紀の質問に、暁はちょっと困ったように首を傾げ
「んー……。どう説明すりゃいいんだろな。秋音はさ、多分消えてないぜ。今は眠ってる状態ってやつかな。俺もさ、消えてたわけじゃねえんだよ。ずっと秋音の中で、眠ってるような感じだったんだ」
「眠ってる……感じ……?」
「ああ。秋音の意識を通して、おまえの存在は感じていたぜ。んー……ちょっと上手く説明が出来ねえんだけどな」
暁自身がよく分かっていない感覚を、雅紀に分かれと言っても無理だろう。
「あのな、雅紀。俺がこうしておまえと話してられんのは、秋音の意識が眠ってる間だけかもしんねえんだよ。だからさ……キスしてもいいか?また俺が沈んじまう前に」
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