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第57章 幻月1
アパートの部屋に入っても、すぐに雅紀を追求するのは止めておいた。何より、薄着のせいで雅紀の身体が冷えきっている。
「居間に行って暖かい格好していろ。俺は風呂の準備をするからな」
「やっ、風呂なら俺が…っ」
「おまえな、俺を太らせるつもりか?もう風呂の掃除ぐらいは大丈夫だ。いいから上着を羽織ってこい」
反論しようとする雅紀の背中を押して、居間に押し込めると、秋音は腕まくりをして、風呂場へと向かった。
「ちゃんとあったまったか?」
風呂から出てきた雅紀は、用意していたTシャツと短パンを着ていた。秋音は待ち構えていたように、雅紀のまだ濡れている髪の毛を、タオルでわしわしと拭いてやる。
「うん。大丈夫。ゆっくり浸かってきたから。それより秋音さんも、お湯が冷めちゃう前に入ってきて」
「ああ、そうだな。じゃあ湯冷めしないように、これを上から着ておけ。今夜は結構底冷えしてるからな」
押し入れから出してきた、暁の厚手のシャツを雅紀に渡すと、風呂場に向かった。
秋音に渡されたシャツを、雅紀はぎゅっと抱き締めた。これはカタクリを撮りに行った時に、暁が着ていた服だ。
……どうしよう……。
さっき思わず口を滑らせた。秋音はその後、何も聞いてこないけど、きっと気になっているはずだ。
秋音の中に眠る暁の存在。
正直、鋭い秋音に隠し事をしているのはしんどいし、出来れば打ち明けてしまいたい。でも、言えば当然、秋音はショックを受けるだろう。
さっき、暁に会えなくて寂しいかと聞かれて、ちょっとドキッとした。自分は寂しいのだろうか……と、風呂に浸かりながら自問自答してみた。
たしかにあのハチャメチャに明るくて、とびきり前向きな暁の言葉が聞けないのは寂しい。でも、秋音がちょっと哀しそうに問いかけてきた寂しいという意味とは、やっぱり微妙にニュアンスが違うのだ。
自分以外の誰にも存在を認めてもらえない、今の暁の状態が寂しい。
そもそも暁が存在してしまった原因は、秋音の事故による記憶喪失だった。記憶を失い闇の中をさまよっていた秋音自身が、孤独に怯えながら何年もかけて、作り上げた存在なのだ。
暁は自分に出会えたことで、闇の中に光を見つけたと言ってくれた。その暁が今また、自分の分身であるはずの秋音にすら、存在を認識してもらえないでいる。そのことが寂しくて切ない。
今朝のキスマークの一件は、秋音が勝手に誤解してくれて、何となくうやむやになってしまったが、やっぱり暁のことを秋音に伝えた方がいい。
雅紀は決心すると、抱き締めていたシャツに袖を通した。
夕飯は寒いので鍋にした。肉や野菜やきのこ類の下準備をして、味付けは市販のキムチ鍋の素。ホットプレートの深型鍋につゆを入れて、肉、野菜、きのこ、豆腐を並べて入れていく。
「いいな。鍋なんて久しぶりだ。それにしても、市販のつゆも最近は種類が豊富なんだな」
「うん。俺もびっくり。鍋つゆだけで棚がうまるくらいあったし…」
「坦々胡麻鍋の素とか、洋風鍋の素とか、トマト鍋の素なんていうのもあったぞ」
「あ。秋音さん、もうニラ入れてもいい?」
秋音はぐつぐつしだした鍋をのぞきこんで
「肉や野菜はもう煮えているな。よし、もういいぞ」
雅紀がニラを入れると、秋音は蓋を乗せた。ひと煮立ちさせてから蓋を取る。仕上げにキムチを足して完成だ。
「んー。いい匂いっ」
雅紀が嬉しそうに鼻をひくひくさせる。
「じゃあ、食うか」
秋音は取り皿に肉や野菜をまんべんなく盛って、雅紀に渡した。
「熱いからな、火傷するなよ」
雅紀は頷くと、秋音の分のご飯を茶碗によそう。2人分揃うと、手を合わせていただきますをしてから、食べ始めた。
「あふいっ。れもおいひいっ」
幸せそうな顔で、はふはふしながら喋る雅紀に、秋音は思わず吹き出して
「こら。おまえ猫舌だろう。慌てて食うなよ。口の中、火傷するぞ」
雅紀は涙目でこくこく頷きながら、取り皿にふうふう息を吹きかけた。
「うん。美味いな」
秋音もひとくち食べてみて、満足そうに微笑む。
料理の味がいいのももちろんだが、雅紀と過ごす時間の楽しさが、食事の美味しさを更に増してくれている気がする。こんな楽しい団欒のひとときを、また持つ機会がくるとは思っていなかった。雅紀の存在は、秋音の中で日増しに大きくなってきている。
「なあ、雅紀。さっきの話をしてもいいか?」
途端に、雅紀の箸の動きがぴたっと止まった。神妙な顔つきで、じ……っとこちらを見つめてくる。
「そんなに警戒するな。怒っているわけじゃない。ほら、食いながら話そう」
「……うん…」
「暁が寂しがってるってどういう意味なんだ?」
雅紀はごくんと唾を飲み込むと
「あの……あのね、秋音さん。ショック……受けないでね」
「ああ」
「秋音さんが眠ってる時……たまに暁さんになるんです」
「………?」
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