270 / 369
幻月5
「おまえが傷つくと思ったんだ。貴弘の……桐島の名前出したらさ。それだけだ。おまえの過去がどうであろうと、俺は気にしたりなんかしねーよ。兄だかなんだか知らねえけど、んなことどーだっていい。貴弘のとこなんか行くなよ。行ったら承知しねえぞ」
「……うん。行かない。俺、あなたの側にいたい……。ずっと……側にいて……あなたのこと、守るから」
ぽろぽろ零れてきた涙を、唇で受け止める。
「あーくそっ。もっとおまえと話したいのにな。もうタイムリミットだ。そろそろ……秋音が起きる……。伝えてくれ、秋音に。俺の大切な恋人を……守って……くれって…」
「暁さん……っ」
ぼろぼろ泣きながら、雅紀は暁にキスをした。暁の瞼が閉じられていく。じょじょに脱力していく暁の身体を抱き締めて、一緒にシーツに横たわった。
「暁に会ったのか」
秋音は目が覚めると、傍らの雅紀の顔を見るなりそう言った。雅紀は涙に濡れた瞳でこちらをじっと見つめたまま、黙って頷いた。
「そうか……。伝えてくれたか?俺の伝言を」
「……ぅん…」
秋音は手を伸ばして、すんすんと鼻をすする雅紀の目元を、優しく指先で拭った。
「泣くな。目が兎だぞ」
雅紀は一瞬目を見張り、泣き笑いの表情を浮かべた。秋音は少し遠い目になり
「夢を見ていた。おまえと一緒に、どこか山の中のような場所にいた。辺り一面に紫色の……炎のような形の、不思議な花が咲いていた」
「あ……それ……かたくり」
「かたくり?」
首を傾げる秋音に、雅紀は頷いて
「それ、多分、かたくりの花です」
「現実にある花なのか?」
「うん。暁さんと写真、撮りに行った時に咲いていた花で」
「……そうか……。じゃあさっきの夢は、暁の持っている記憶、なんだな。すごく幻想的な光景だったから、実在の花じゃないのかと思っていた。……その花、今も見られるのか?」
雅紀は残念そうに首をふり
「春の初めに、つかの間の期間だけ咲く花だって、暁さんが…」
「……そうか。見てみたかったな、その光景を。もっといろいろ思い出せそうな気がするんだ」
「え……ほんと……?」
「ああ。出来ればその花が咲いている所を見てみたいが…」
「じゃ、行ってみます?その公園」
ぐいっと身を乗り出した雅紀の大きな目が、期待にキラキラしている。秋音は苦笑して
「……そうだな。花はなくても同じ場所に行ってみたら、何か思い出すきっかけがあるかもしれない。……カメラを持って出掛けてみるか」
雅紀はこくこく頷いて
「あ…じゃあ、出来るだけあの時と同じシチュエーションがいいかも。服装とか、持ち物とか……。そうだ。公園の近くで、ほか弁買ってから行ったんです」
秋音は窓の方を見て、カーテンの隙間から見える空を確認すると
「今日は天気も良さそうだな。よし。朝飯食べたら、昨日田澤さんに頼まれた仕事を先に済ませるぞ。その後で、公園に行ってみよう」
「はいっ。じゃあ、俺、朝飯準備しますねっ」
雅紀は嬉しそうに微笑むと、がばっと起き上がり、布団から出て台所に向かった。
……ああいう所はまるで子供みたいだな…。
さっきまで泣いていたのに、もうにこにことご機嫌で張り切っている。
そんなに暁が恋しいのか……と、ちょっと拗ねてみたくもなるが、せっかくの雅紀の笑顔を曇らせるのも大人気ないだろう。
秋音は起き上がると、朝食作りの手伝いをする為に立ち上がった。
朝食はトーストとハムエッグ、サラダとコーンスープを簡単に作って済ませた。
田澤から頼まれたのは、調査結果の報告書を依頼主の会社に届ける仕事だった。田澤とは長年の付き合いのある建築会社の社長で、依頼内容もそれほど込み入ったものではない。
暁の記憶がない自分には、最初から難度の高い仕事は無理だろう。当分はデスクワークと人脈作りをしながら、この仕事に慣れていくしかない。
雅紀の運転で、依頼主の会社に向かった。田澤から聞いていた通り、人当たりの良い快活な人物だった。自己紹介をして約束の報告書を渡し、少し雑談をして、今日の任務は終了。調査員としては新米だが建築関係の知識には明るい秋音を、その社長は気に入ってくれたらしく、次の依頼の時には君を指名すると言ってくれた。
会社を出てから田澤に報告の電話を入れ、雅紀と一緒に駐車場に戻る。
「秋音さん、大丈夫?疲れてません?」
気遣わしげな雅紀に、秋音はにっこり微笑むと
「大丈夫だ。疲れるほどの仕事はまだしていないぞ。で、その自然公園はここからどのくらいだ?」
「えーと……。車だと40分ぐらいかな」
秋音は時計を確認して
「それならちょうど昼前には着けるな。よし。行こう。公園近くのほか弁屋で、まずは昼飯の調達だよな」
「はいっ」
書籍の購入
ともだちにシェアしよう!