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幻月8

「苔が生えてて滑るから、気をつけて、秋音さん」 途中から脇道に逸れると、長い石段が続いていた。樹齢何年か見当がつかないような針葉樹が鬱蒼と茂る林の中を、雅紀は秋音の足元を気にしながらゆっくりと石段を降りて行く。 「大きな公園なんだな。さっきの芝生広場だけでもなかなかの広さだったが、更に下があるのか」 「うん。ここって多分、山を丸ごと公園にしてますよね」 「これは1周するだけでいい運動になりそうだ。リハビリにはちょうどいいか」 「うーん……アップダウンきついから、秋音さんのリハビリには、ちょっとハード過ぎるかも。疲れたら言ってくださいね。途中で休憩するから」 「ああ。分かった。かたくりの花が咲いていたのは、この先か?」 「そう。階段を下まで降りて、小さな広場の脇の道を抜けると、湿地帯になってて、その横の斜面一帯がかたくりの群生地なんです」 「夢で見ただけだが、不思議な雰囲気の花だった。来年は俺もおまえと一緒に見てみたいな」 来年。また2人一緒にあの花を見る。 簡単なことのようで、今の2人の状況では、実現までの道は険しいだろう。 まずは一番の憂い事である、秋音の命を狙う者を見つけ出し、その脅威を取り除く。そして秋音のなくした記憶を取り戻す。 全て解決した時に、秋音の、そして暁の傍らで、自分は笑ってあの花を見ることが出来ているんだろうか。 先のことは分からない。でも、そうありたいと心から願う。 「どうした?ぼんやりして」 立ち止まり、湿地帯の方向を黙って見つめていると、秋音に肩を叩かれた。 「あっ……ううん。何でもない。ほら、広場が見えてきたでしょう?かたくりの斜面はあの向こうです」 雅紀は指差しながらまた歩き出した。 「秋音さん、疲れた?ちょっとベンチで休みましょうか」 広場の奥のベンチにしきりと目を向ける秋音に、今度は雅紀が心配顔で話しかけた。秋音は眉を寄せて考え込むような顔をしていたが、ふいにはっとした顔になり 「パスワード……。そうか、パスワードだ」 「え?なに?」 訳が分からず首を傾げる雅紀の顔を、秋音はじっと見つめて急に笑い出した。 「暁のパソコン。隠しフォルダのパスワードを思い出したんだ」 秋音の唐突な言葉に、雅紀は目を丸くして 「えっ。どうして今?……ってか、何で笑ってるの?秋音さん」 「あのベンチだ。あ……いや。これは雅紀には内緒なのか?」 「え?俺に内緒って……何が?え?」 頭の上に盛大に?マークを飛ばしている雅紀をよそに、秋音は独り納得顔で 「なるほど。そうか。暁のヤツ……。それにしてもまた、随分とあからさまなパスワードだな」 「秋音さん……?」 雅紀に腕をがしっと掴まれた。不安そうな顔でぐいぐいベンチに連れて行かれる。 「ね、座って。少し休みましょう。頭とか、痛くないですか?」 大人しくベンチに腰をおろすと、隣に座った雅紀が顔を覗き込んでくる。上目遣いの大きな瞳と目が合った。 「大丈夫だ。頭は何ともない。暁があの隠しフォルダに、何のデータを保存していたのか分かったんだ。そのパスワードもな」 「それって、思い出した……ってこと?」 「ああ。あのベンチを見ていたらな。ふと頭に浮かんできた。いつものデジャブみたいなヤツだ」 「……何のデータだったんですか?」 「うーん……それは俺が言ったらまずいだろうな。暁が目覚めた時に聞いてみるといい」 雅紀はきょとんとした顔で首を傾げ 「えっと……そのことを、このベンチを見て……思い出したってこと?」 「ああ。そうだ」 雅紀は微妙に納得いかない顔で 「記憶って……変だ。何が思い出すきっかけになるのか、さっぱり分かんない…」 「本当だな。だがいい傾向だ。前に行った所や見たもの、体験したことが、記憶の引き出しの鍵になっているわけだろう?」 「うん。どんなことがきっかけになるか分かんないから、おんなじことしてみるのは、やっぱり効果あるのかも」 秋音は立ち上がると、雅紀の頭をぽんぽんと叩いた。 「よし。じゃあ、かたくりの群生地にも行ってみるぞ」 「はいっ」 林の中の小道を抜けると、急に視界が開けた。湿地帯の向こうには、かたくりが群生していた山の斜面が見える。 遠目からでも紫色の絨毯のように見えたそこは、今は草が生い茂るだけの山肌になっていた。 分かってはいたが、やっぱりちょっとがっかりしながら、湿地帯の脇の道を斜面まで近づいていく。 小さな春の妖精は、特徴的な炎のような花弁を失い、葉と茎だけになっていた。もう地上部が枯れかけているものもある。 「あーぁ。やっぱりもう花は終わっちゃってる…」 「そうみたいだな。仕方がないさ。分かっていて見に来たんだ」

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