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ひそやかな足音5

気がつくと、向かい側の秋音と雅紀が会話を止めて、大胡の方を見ている。小声で話してはいたが、狭い室内だ。こちらの話が聞こえていたのだろう。 「貴方は、母を……愛していたのですか?」 感情を押さえた秋音の静かな問いかけに、大胡は秋音の目を真っ直ぐに見返し 「もちろん愛していた。こんなことを言っても、君は信じないだろうが……。私が人生で唯一惚れた女性だ。大切にしてやりたかった」 秋音はぐっと奥歯を噛み締めた。爆発しそうになる感情を必死で押し殺し 「……では何故……母の手を放したんです。何故、遠く離れた仙台に……?」 大胡の目に一瞬、哀しみの色が宿る。その表情に見覚えがあった。子供の頃、母に父のことを尋ねた時に、母が見せた表情によく似ていた。諦めの混じった哀しげな顔。 「手放したくはなかったが、そうせざるを得なかった。舞にも君にも苦労をかけた。全ては私の責任だ。……すまなかった」 大胡はそう言って深々と頭をさげた。言い訳もせず、多くを語らない大胡に、激情に任せて詰め寄るほど、秋音も苦労知らずではなかった。深い後悔と苦渋を滲ませたその顔には、他人では推し量ることの出来ない、当事者だけの事情がある。 生前、母は父のことをほとんど語らなかったが、父に対する恨み言や悪口も1度も聞いたことがなかった。父の愛人だったと打ち明けてくれた時も、思春期特有の潔癖さで激しく父のことを詰った自分に対して、母は今の大胡と同じように、言い訳は一切せず、ただひたすら自分に謝ってくれた。 秋音は大胡から目を逸らし、傍らの雅紀を見た。 自分たちのやりとりをはらはらしながら見守っていたのだろう。 大きな瞳が心配そうに揺れている。 自分と離れることを覚悟で、貴弘の元へ行こうとした雅紀。それもまた、自分を愛してくれているからこその決意だった。 共に側にいて幸せに暮らすことだけが愛の形ではない。父と母がお互いに愛し合っていて、それでもどうしても共に生きることが出来なかったのだとしたら、それを母も納得していたのだとしたら、自分がこれ以上父を責めるのは、母が一番望まないことだろう。 秋音は安心させるように雅紀に微笑むと、再び大胡に向き直り 「母の遺品を整理していた時に、貴方の写真と、母が書いた貴方宛の手紙が何通か出てきました。俺は封を開けていません」 大胡は目を見開いた。 「舞が……私宛に……」 「6年前、俺が仙台からこちらへ来た時の荷物の中にあるはずです。暁として暮らしているアパートには、それらしきバッグはなかった。ちょっと失礼して、早瀬のおばさんに聞いてきます」 秋音はそう言うと、立ち上がって部屋を出て行った。複雑な表情でその後ろ姿を見送った大胡に、田澤は 「外見は似ていないが、暁……いや秋音さんはやっぱり貴方の息子だ」 「田澤……」 「筋が1本通った真っ直ぐな気質も、思慮深さも、貴方にそっくりですよ」 田澤の言葉に、大胡は込み上げるものを抑えるように、唇をぎゅっと引き結び、眉間を指で押さえた。 「感謝しなければいけないな。あの子を立派に育てあげてくれた舞に……」 田澤は頷いて、俯いた大胡の肩にそっと手を置いた。 襖が開き、ボストンバッグを手にした秋音が姿を現した。部屋の3人が黙って見守る中、秋音は自分の席に再び腰をおろすと、バッグを開けて中から綺麗な布に包まれた手紙の束を取り出すと 「これは貴方にお渡しします」 そう言って布ごと座卓の上に置いた。大胡は手紙と秋音の顔を交互に見つめ 「いいのか?舞の遺品だろう?」 「はい。だからこそ貴方に持っていて欲しいのです。母もそれを望んでいると思います」 大胡はそっと布の包みに手を伸ばした。この綺麗な淡い花模様の布地には覚えがある。大胡が結婚前に親に内緒で舞と旅行をした時に、旅先で舞に買ってやったストールだ。 包みを開くと10通以上はある封書。宛名は全て『桐島大胡様』 差出人は『都倉舞』 大胡は震える指で、古びた未開封の封書を取り上げ封を切った。 中から出てきたのは便箋と数枚の写真だった。写真にはまだ幼い秋音が写っている。柔らかい文字で綴られた文面は、秋音の近況と成長記録。 文字を追う大胡の目が赤くなり、やがて涙が伝い落ちた。慌ててポケットからハンカチを取り出し、目元を押さえる。読み終わった手紙を差し出され、秋音も受け取って読んでみた。日々のちょっとしたエピソードや、自分の身長や体重。子供の健やかな成長を喜び、遠く離れた父親宛に書き綴る文面からは、母の深い愛情が伝わってくる。 秋音は傍らの雅紀にも手紙を渡した。雅紀は神妙な顔でそれを受け取り 「いいの?俺が読んでも」 「ああ」 雅紀は読み始めてすぐに、じわりと目を潤ませ、しまいにはすんすんと鼻をすすり出した。

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