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ひそやかな足音12
「ん……。秋音……さん……?」
寝ぼけ眼でふわんと微笑む雅紀に、秋音は頬をゆるめた。
「おはよう。よく眠ってたな」
「おはようござい……んん…っ」
秋音の唇に挨拶を遮られ、雅紀は一瞬目を見張ってから、うっとりと目を閉じた。
「ぅん……っん……んぅ…」
挿し込まれた熱い舌に絡め取られる。ちゅくちゅくと水音を奏でながら、寝起きにしては濃厚な口付けが続いた。
秋音が満足気に唇を離すと、雅紀はとろんとした目で秋音を見つめ、肩で息をしていた。
「いい顔をしている」
ふっと笑う秋音に、雅紀は目元をうっすら染めたまま、口を尖らせた。
「……もぉ……挨拶が……途中だし」
秋音は笑いながら、尖らせた雅紀の唇にちゅっと仕上げのキスをすると、
「怒るな。余計に可愛くなる」
「……っ」
秋音の甘い一言に、雅紀は言葉を失って秋音の身体に抱きついた。
「朝飯は俺がホットケーキを焼いてやるから、大人しく待ってろ」
秋音は雅紀の身体をきゅっと抱き締めると、手を離して立ち上がった。
部屋を出ていく秋音の後ろ姿を、雅紀はぽーっと見送る。
……こんな毎朝過ごしてたら、俺、溶けちゃうよ……。
雅紀は火照ってしまった顔を両手で押さえて、穏やかで優しい幸せをかみしめた。
「早瀬がいないと、寂しいかい?」
書類のひと山をチェックし終えて、ほぉ…っとため息をついていると、目の前に湯気をたてたカップを差し出された。
「あ。ありがとうございますっ」
「どういたしまして。仕事はもうだいぶ慣れたみたいだね」
古島はにっこり笑って、雅紀の隣に椅子を引っ張ってきて腰掛けた。
「はいっ。ようやくここのファイル、全部やっつけました」
ちょっと得意気な雅紀に、古島はふふっと笑って
「君が頑張ってくれてるお陰で、いちいちファイルをひっくり返して探さなくてもよくなったよ。ありがとう」
古島の言葉に雅紀は目を輝かせ
「わ。じゃあ俺、役に立ててるんですね。良かったぁ…」
「もちろんだ。すごく助かってるよ」
雅紀は嬉しそうにカップを持ち上げ、ふーふーと息を吹きかける。
「早瀬が仕事で外に出ることが多くなったろ?君ちょっと元気ないかな~?って心配だったんだけど」
「や。大丈夫です。皆さんすっごくよくしてくれますし」
「そっか……。早瀬もだいぶこの仕事に慣れてきたよ。彼は飲み込みが早いね。もうそろそろ新しい案件を任せてもいいかもしれない」
雅紀はココアをひとくち啜ると、複雑な表情になった。
「順調なのは嬉しいですけど……秋音さん単独で動くのは……心配です…」
「それは心配いらないよ。田澤さんか俺が、必ず一緒についていくからね」
「あ。そうなんですか」
少しほっとする雅紀に、古島は苦笑しながら雅紀の顔をのぞき込み
「いいなあ、早瀬は。こんな可愛い恋人にいつも心配してもらえて」
雅紀は急に近づいた古島の顔から、さりげなく身を引いた。
「古島さんは、今フリーなんですか?」
「そ。同棲してた子とは半年前に別れちゃったからね。今は寂しいシングルだよ」
「そうなんだ……。でも古島さん、イケメンだから、すぐに次が見つかりますよ」
古島は首を傾げて
「どうかなあ?俺は今、猛烈片想い中だからね。春はまだまだ遠いよ」
「片想い中……」
「そ。俺の想い人は恋人とラブラブでね。俺のことなんか、全く眼中にないわけ」
雅紀は哀しい顔になり
「それは……辛いですね……。俺もずっと片想いだったから、古島さんの気持ちはすっごく分かります」
古島は一瞬言葉に詰まり、苦笑いした。
「まったく君は……。罪作りだねえ」
「へ……?」
わざととぼけているわけじゃないということは、きょとんとしている顔を見れば分かる。
古島は首を竦めてコーヒーをすすった。
「あ。そうだ。早瀬からの伝言。急な依頼が1件入ったから、帰りに○○駅のホテルに寄って、打ち合わせをするらしい。予定よりちょっと遅くなるけど、心配せずに事務所で大人しく待ってろだって。」
「……○○駅のホテル…」
ふいに、ある記憶がよみがえって、雅紀は顔をしかめた。
そこは暁と一緒に貴弘に会ってしまった場所。貴弘が自分と密会する時に常宿にしていたホテルがある駅だ。
「どうしたの?難しい顔して」
古島の声に、雅紀ははっと我に返り、嫌な記憶を振り払って、必死に微笑みを浮かべた。
「ううん。何でもありません。そっか。遅くなるんですね。じゃあ俺、これの続きやりながら待ってます」
「うん。あ……そうだ。君、パソコン得意だったよね。ホームページの更新するんだけど、ちょっと手伝ってくれるかい?」
「あー……はい。お手伝いします」
立ち上がって自分の席へ向かう古島に頷いて、雅紀も立ち上がり、後に続いた。
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