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3.鬼課長、はじめての『ごっくん』①
腹が痛い。今日は朝から腹が痛くて、憂鬱だ。憂鬱に満員電車に揺られて、もう、あんなことがあった後だから痴漢は俺には構わないとは思ったけれど、もしもあの痴漢の、面の皮が思ったよりも厚くて、また俺に手を出して、尻の穴を弄られでもしたら(下しているから)どうしよう。そう思っていつもとは違う位置(ベンチシートの前)に位置どって、吊革につかまって揺られている所であった。
「蓮くん、」
俺の、下の名前を呼ぶ低い声がして、反射的にがばっと後ろを振り返った。そこには、
「あはっ、なんちゃって。課長、おはようございます」
「来栖、」
ほっとしたような忌々しいような。そこにいたのは昨日の社内、会議室で俺を乱暴に抱き、俺に『オナペットになってくださいよ』なんてふざけたことを抜かした部下で新人の来栖がいた。あの後トイレで、自分なりに精液をかき出したつもりだったがやはり、俺のそれは拙かったようだ。一旦自身の腹を見下ろして、それから電車の窓の方を向きなおす。
「朝から趣味の悪い冗談は止せ」
「すみませんってば、課長。でも、感謝してくださいよ」
「はあ?」
満員電車の人ごみの中で、吊革につかまってもいない来栖は俺にぎりぎり聞こえるくらいの声で俺に、語り掛けてくる。
「あの痴漢、今日もこの電車に乗ろうとしてたんすよ。ホームで一緒になったから、凄んでやったら一便ずらすって言って消えたんです」
「!! そうか、」
「だって課長、変なとこ抜けてるからまたこの時間に乗るって思ったから。それに……」
「それに、なんだ」
変なとこ抜けてる、とは心外だが、そこは流して俺は来栖の言葉に耳を傾ける。来栖は鞄を持っていないほうの手を、するっと俺の下腹部にまわしてやさしくそこを、まるで妊婦にするように撫ぜてくるからゾクッとした。
「課長、今日はおなかの具合が悪いはずだから、ね?」
「だっ、誰のせいだ!」
「俺がナカにたっぷり出したから、ですかねぇ」
最後は俺の耳元に寄り添って、囁くように、である。昨日の情事を思い出して、俺は頬を染めて青くなって、それでも窓のほうを見たまま動かない。すると来栖に無理やり顔を振り向かされる。
「課長、皆今日も待っていますよ?」
「は、皆? 何をだ……」
「課長が男に痴漢されて、可愛く感じてる姿を見たいって、みんな課長の方を気にしてます」
「そんなわけっ!?」
来栖と密談している最中、言いながら周りを見やると心なしか、サラリーマンたちが俺から目をそらしていったように思えてしまった。本当に、俺は注目されているのか? そう思ってしまうと恥ずかしくて、らしくなく顔を赤くする。少し黙った俺に満足して、来栖は例の嫌な感じの笑みを浮かべて『ね?』と意地悪く俺を納得させようとする。『でも』と再び続ける。
「でも課長、課長はもう俺の、俺だけの『オナペット』なんです。だから他の男には……もう触らせない」
「おまっ……人前で何をっ、んぅ」
ちゅう、と人ごみの中キスされる。部下に、年下に、来栖に。そのまま舌を入れられて、片手はつり革、片手には鞄を持った俺は良いように口内を蹂躙される。来栖と俺の、二人の唾液が混ざり合って溶け合って、舌を絡めとられるのから逃げようと口内で攻防を続けていると、そのうち来栖に、舌をジュジュ、と吸い上げられてしまって背筋を震わせる。
「んむっv!?」
「はぁ……課長、今日も可愛いです」
「っは、ふっ、ふざけるな! 大体お前、ここをどこだと思ってるん、」
「二人きりなら、キスも許してくれるんですか?」
「そんなことは言っていない!」
「ふふっ、まあこれ以上は……課長はおなかが痛いんだから、ここでは勘弁してあげますよ」
そういうと来栖は俺に寄り添って抱き着きながら、雑踏がこっちを注目しているのにもかかわらず、会社の最寄り駅につくまで俺にすり寄ってやまなかった。
***
その日も昨日のことを思って、来栖のことを考えてぼうっとしてしまっていたようだ。また『課長、課長、』と呼ばれてハッとすると、やっぱりいつも、直接俺に仕事をまわしてくるのは一人である。二十六才中堅デザイナーの永崎君が、心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「課長、昨日から変ですよ? 元気がないっていうか、」
「……すまない。少し考え事をしていた」
「悩み事ですか? そういうことは一人で抱えず、この永崎に相談の一つでもしていただければ!」
「!! 永崎くんに、言えるわけがないだろう!」
「へっ?」
「い、いや……なんでも。それで、用件は?」
「あっ、ハイ。こちらになります」
そうしていつもの企画案を永崎くんと口頭で少し議論して、いろいろなことが固まりつつあっては永崎くんがにこりと笑っていう。
「やっぱり、課長は頼りになります。ありがとうございます!」
「礼には及ばない」
眼鏡をかちゃりと上げなおして、俺はまた自分の仕事に戻る。ノートパソコンで作業をしていると、やっぱり腹が痛くてむっと眉をひそめて午後二時に、俺は一人トイレへと向かった。
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