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「先生は今まで、男の人に『好きです』って告白されたこと、ある?」  作業机の脇に立ち、丸い瞳でまっすぐにこちらを見下ろしながら、彼は俺にそう訊いた。二学期が始まってしばらく経った、まだ夏の暑さを肌が覚えている頃だった。  体調不良がたたって離職した前任者に代わり、急きょ九月から現在の高校で教鞭を執ることになった。担当教科は美術。各学年とも、一週間のうち美術の授業があるのはわずか一日。一、二年生はさておき、受験にほぼ関係のない教科ということもあってか三年生のクラスは生徒たちの授業態度がはっきりと分かれていた。息抜きとでも思っているのか、私語を止めない生徒の多いクラスもあれば、絵筆を動かしたり釘を打つ音だけが控えめに響くぐらいで、誰も息をしていないんじゃないかと思うほど静かなクラスも。彼のいる進学クラスは特に静かだった。  めったに来客のない美術準備室のドアを二回ノックして、失礼しますと彼が入ってきた時、『何故?』という疑問と驚きだけがあった。授業に関する質問でもあるのかと思いきや、県立美術館で来週から始まる印象派の展覧会を一緒に観に行きませんか、と小首をかしげた。返事に戸惑っていると、静かな声で、でも畳みかけるように「先生と生徒が一緒に行っちゃダメですか?」と続く。なぜかその時、彼の瞳から目をそらすことができなかった。二学期が始まってからやっと一か月。これまで、彼とは一度も言葉を交わしたことはなかった。ただ、静謐な教室の中で、彼だけはいつも顔を上げてじっとこちらを見ながら話を聞いていた。だから、名前を憶えていた。澄という字を書いて「とおる」と読む名前も印象的だった。  結婚から数えると四年。ただし、正確には離婚して一年が経とうとしていた。子供はいない。もうすぐ三十五になるけれど、正直もう一度誰かと恋をして結婚をしたいかと問われれば、たぶん首を横に振る。  けれど、同性が好きなわけではない。だから、彼の質問に対して即答すればよかった。「そんなふうに告白されたことはない」と。  美術館に一緒に行く気があるのか、ないのか。  彼が知りたいのはそんな単純なことじゃなく、俺の恋愛対象が異性なのか同性なのか、それを知りたくて『同性に好きだと言われたことがあるか?』と問いかけているのだと理解した。 「ない。男にも女にももてない」  つまらない答えに彼は「そうなんだ」と微笑み、「じゃあまた来週の授業で」とだけ言い、帰って行った。  そんなふうに彼が美術準備室にやって来ることが二度、三度と続き、ラファエロやミケランジェロの話をしていたある日、唐突にこんなことを言った。 「先生のシャツはいつもいちばん上までボタンが留めてあって、首もとがちょっとだけ窮屈そう。だから、ひとつかふたつボタンを外して自由にしてあげたい。今日みたいにきゅっとネクタイを結んでる日なんて特に」  いつも通り、隣の補助机に浅く腰掛けてこちらを見下ろしながら彼は話していた。彼にはなに一つ、自分のことを明らかにしていない。俺も彼のことをよく知らない。なのに彼がそう言った時、振り返ればこれまでの人生のほとんどを息の詰まるような思いの渦の中で過ごしてきた自分に、彼がそっと救いの手を差し伸べてくれている気がした。  錯覚だとか思い違いだとか、フッと息を吐いて冷静になる余裕すらなかった。ガタッと音をさせて椅子から立ち上がった俺を驚いて見上げている彼を、思わず抱きしめていた。  制服の両腕を俺の背中に伸ばしながら小さな声で彼が告げた言葉に、何度も首を縦に振って応えた。上着の背骨のあたりをぎゅっと握りしめ、彼が嬉しそうに言った。 「じゃあ、僕が先生に告白した最初の男だね」  学校から最寄りの駅まで十五分ばかり歩く間にも、風の匂いにゆっくりと秋が深まってきているのがわかるような、十月の真ん中を過ぎた頃の金曜日だった。  本当はあの時、「ボタンを外して自由にしてあげたい」と言った彼の救いの手をつかむよりも先に、彼の着ている制服を全部脱がせて自分のものにしてしまいたかったのかもしれない。

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