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38.世界の邪魔

 ホテルの中華レストランで、香川さんはランチコースを奢ってくれた。  のだが、今までに無かったような細々とした指摘を受け、雅史はペンを走らせたり考えたりに忙しくて、高級中華らしきランチを味わう余裕などなかった。  それが終わってペンを置いたとき。  表情こそ淡々としていたが、雅史はすっかり興奮して楽しくなっていた。そこで新たなキャラ、ナイフ使いの青年を仲間に入れるというアイディアを伝えてみると、香川さんも「いいね!」と興奮気味に頷く。 「うんうん、それはいいよ! 普通の感覚を持ったキャラが語り部になることで読者が共感しやすくなるという利点もある。うん、すごく良いアイディアだね!」  香川さんはそれからも絶賛の言葉を巧みに混ぜ込んだ会話を続け、雅史は最高潮にテンション上がっていた。このモチベーションをキープしたまますぐに直しを入れたい。それに今朝までは二話を書き上げることを優先して後回しになっていた構成の修正も早く手をつけたい。  すぐ帰りたいと言うと、香川さんはランチを中断して残りを包んで貰い、雅史の分を渡してくれて寮まで送ってくれた。  礼もおざなりに部屋へ戻った雅史の脳裏には、香川さんの言葉のひとつひとつがくっきりと残っていて、それに誘発されて気づいた修正すべき部分が、頭の中にハッキリとあった。  すぐ作業に取りかかり、修正を終えると、一度の推敲で構成に手を入れ始める。最後の推敲は時間をおいた方が良いから後回しだ。  構成を練り直しながら思いついたシーンを文にする。こういうとき、勢いは重要だと雅史は知っていた。そういうとき書いた話は面白くなるのだ。逆にイマイチ乗らないまま無理矢理書いたもの、ひねり出したエピソードは後で使えないと判断する場合が多い。  つまりやたらテンションが上がりまくっているこの状態をキープしたまま書くことには、大きなメリットがあるのだ。  なんて頭の片隅で理由付けをしていたが、実のところ雅史は書きたくて書きたくてたまらなかっただけだった。  むっつりと黙っている目つきの鋭い剣士、辛辣な言葉を吐きながら好きに行動する魔法使い、少し抜けてる陽気なナイフ使いの青年、ニヤニヤ傍観する僧侶、彼らに絡む村人たち、ヒロインのシーフも生き生きとして、ちょっと皮肉な台詞を吐く。  そのとき彼らは雅史と共にあった。  脳内で、キャラクターたちが勝手に動き、喋る。時に企み、時に怒り、驚き、笑い、悲しむ。  それを残さず写し取ろうと夢中でキーを叩き続ける間、意識は完全に自分の作り出した世界に埋没する。この上ない幸福な時間。  あくまで無表情ではあるのだが、雅史は真実、楽しくて楽しくてたまらなかった。無意識にこの時間の永続を望むほど。  腹も減らずのども渇かず、三時間ほどしか寝ていなかったのに、アタマは冴え冴えとして疲労なんて微塵も感じない。  だがそんな無上の幸せが長く続くものでは無いのだ、ということを、やがて思い知らされることになった。  つまり 「おいっ! なんか言えよっ!!」  声と共に唐突に肩を揺らす手にミスタッチを強いられたのだ。  集中していた世界から強制的に引きはがされた不満が、激しい憤りを吹き上げる。 「なに!?」  肩の手を払いながら鋭い目と声で振り返ると、そこには雅史以上に強い視線の藤枝と、眉根を寄せた丹生田の姿があった。 「ナニ、じゃねえだろ!」  いつもニコニコかダラケた顔しかしてないくせに、今日の藤枝は妙に迫力があった。 「おまえどうしたんだよ! 講義一個も受けてねえって山家が言ってたぞ!」  そう思って見るとデカいからそれなりに圧迫感がある。いつもはそんな感じ皆無なくせに、なんだろう、イラッとする。  だから思いっきり睨みながら、それでも客観的には淡々と、雅史は言った。 「それがなに」 「なにって!」  今の状態を邪魔するなんて、どんな強大な魔王にだって許されないことだ。まして藤枝ごときにそんな権利なんてチリほども無い。 「静かにしてくれないかな。藤枝君の分際で邪魔しないでよ」 「なんだよそれっ!」  今にもつかみかかろうとする藤枝の肩に丹生田の手が乗った。 「落ち着け。……橋田も」  それでぴたりと動きが止まるのを見て、雅史は呆れた。まったく単純、下らない。こんなのどうでも良い。それより丹生田だ。 「……僕は落ち着いてるよ」 「そうか。ならいい」  そう言って丹生田は目を少し細め、口元を緩めた。笑っているのだろうが、分かりにくいといつも思う。なのにこの大男はなにげに鋭い。ときおり雅史に間違いを突きつけてくるので、油断ならない。  以前もこんな感じで勢いを削がれた記憶があった。そのとき感情の制御ができていなかった自身を自覚させられ、屈辱と共に自重しようと思ったことも思い出した。  苛立ちが増す。  今このとき、自分の世界を構築する以上に重大なことがあるだろうか? (いや、無い)  そう断じて、雅史はまず冷静になる必要があると自分に言い聞かせ、椅子をくるりと回してデスクに向き直った。  開いたままのラップトップの画面では、さっきミスタッチした文字の下でカーソルが点滅していた。バックスペースでそれを消し、入力し直したが、さっきまで浸っていた幸せな世界は既に霧散している。あれを取り戻すのは容易ではない。滅多に入れない至福だったのに。  がっかりしながら時刻を確認した。いつのまにか十九時を過ぎている。六~七時間集中していたようだ。  喉が渇いたような気はしたが腹は減ってない。それより三日入浴していないのを思いだした。  雅史は溜息を吐いてテキストファイルを保存し、黙々とロッカーへ向かった。 「おい、橋田!」  苛立たしげな藤枝の声が聞こえたが、風呂道具を持った雅史は、振り向くことなく無言のまま部屋を出る。  まったく腹立たしい。冷静さを欠いては客観的な観察などできないのに、なにをやっているのかと自分を責めつつ、雅史は風呂へ直行した。  いつも三人で浴室へ行くのは、たいてい十七時半から十八時くらいである。二十時近いこの時間にひとりで来たのは初めてだった。  多くの寮生が夕食を終えた時間なので、当然いつもより混み合っている。  雅史はまず浴室を覗き、シャワーやお湯が出る場所が埋まっているのを確認する。六ヶ所しかないので、すぐ埋まってしまうのだが、いつもは三人交代で使うから問題無かった。丹生田は部活後にシャワーを浴びているからすぐ終わるし、藤枝もカラスの|行水《ぎょうずい》タイプなのだ。  浴室の面積は広いし浴槽は大きいのに、床はだだっ広く余裕がある。ここにもっと設置すればいいのに、などといつも思うのだが、洗い場にあぶれた人たちはその床で浴槽からお湯を汲み、身体を洗っていた。同じようにすれば良いと判断し、雅史は脱いだ服を入れた袋にメガネも外してつっこみ棚に置いた。  ぼんやりとした視界のまま浴室に入って湯を汲み、身体を洗う。髪はシャワーが空いてからで良い。なにしろ三日ぶりだ。しっかり洗う必要がある。  ごしごしと身体を擦っていると、「おいっ」低く責めるような声が聞こえた。  声の方を振り向いたが、メガネをしていないので、少し離れたところに誰かいるということしか分からない。 「はい?」  なのでそっちに向かってぼんやりと声を返す。 「ハイじゃねえよ、飛び散ってんだろ! もう上がるとこなのに、こっちまで泡ついたじゃねえかよっ!」 「はあ、済みません」  そんなの流せば良いんじゃないかと思ったが、声の調子は相手が冷静では無いと伝えていた。そういうとき、理屈が通じないことがあるということを雅史は知っている。なので手元にあった洗面器で適当にそっちへお湯をかけた。泡を流してしまえば納得すると思ったのだ。 「なにすんだ!」  なのにまた怒鳴られた。 「流しました」 「なに言ってんだ! ああもう、おまえの垢浮いたお湯なんてかけられたら、もう一回洗い直さなきゃなんねえじゃねえかよ!」  なるほど。  そこに考えが至っていなかった。潔癖な人ならそういう風に感じるものかも知れないと反省し、雅史は素直に「済みませんでした」と言った。だがなぜか通じない。 「済みませんじゃねえよ! どうしてくれる!」 「どうって」  というか絶対自分だって洗面器なり持っているんだろうから自分で流せば良いし、なんなら洗い直したってたいした手間じゃ無いだろうに、なにを言ってるんだろう。どうしたら満足するのかなあこの人、面倒だなあと思っていたら、頭上からザバッとお湯が降ってきた。  一瞬なにが起こったか分からなかったが、どうやら怒った相手にかけられたらしい。瞬いたら目に染みて痛かったので、ギュッと閉じてタオルで顔を拭った。それでもまだ痛いので、手で目元を探ると、ちょっとぬるっとする気がした。 「コレで済むと思うな。覚えてろよ」  低い声が聞こえ、その人が離れた気配を感じた。そちらを見たが、メガネをしてないので裸がたくさんあるとことしか分からないし、目が痛いのでまた目を閉じた。顔も分からないのに覚えられないよなあ、と思いつつ、今度は泡を飛ばさないように気をつけて身体を洗う。  目を閉じたまま手探りで身体を流していたら「おい、洗い場空いたぞ」と声をかけられた。聞き覚えがある声だ。 「ああそう」 「つうか見えてねえの? こっちだよこっち」  乱暴に腕をつかまれ、引っ張って誘導されながら ああ小松の声だ、と思う。  同じ一年で、たしか経済学部。あんまり目立たない奴だが、姉崎とよく一緒にいるので記憶にあった。そういえば小松の言動を村人のキャラに使ったな、と思い出す。 「さっきシャンプー頭にかけられてただろ。大丈夫か?」  そうなのか、と思いつつ髪をかき混ぜたら泡が立った。シャンプーを出す手間が省けたので、そのまま髪を洗っていたら、すぐ隣からため息が聞こえた。 「大丈夫なら良いんだけどよ、あれ二年生だろ? 目ぇつけられたんじゃね?」 「そうなの?」 「あ~そか、見えてねんだよな」 「うん」  答えながらシャワーで髪を流し、タオルで顔を拭いたらもう目は痛くなかったので、少し安心して浴槽に入る。なぜか小松もついてきて、すぐ横でぼやくような声を漏らした。 「おまえ、大物だよなあ」  なにを言ってるのか分からなかったが、どうでもいいので雅史は放置した。

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