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40.おいしいネタ

 なんとなく続くな、とは感じていた。  たとえば朝食を食べるとき。  早い時間や混雑時に問題が起こることは少ないのだが、講義をスルーするような日は、マヨネーズやソースが魚や煮付けにかかってたり、みそ汁がいきなり零れたりする。最近はご飯やみそ汁にもソースや七味がかかってたりもした。まあそういうときは別世界に意識が飛んでたりするのだが、注意力散漫ゆえだとしても不自然を感じないわけでは無い。  それに風呂では、横からお湯では無く冷たい水がかかったり、なぜか浴槽で溺れそうになったりする。だが見えていないし、考え事に没頭していたりするので、なぜそうなったのかが分からない。 (う~ん、これが偶然の重なりだとしたら、そうとう運が悪いってことになるけど)  などと一瞬考えはしたが、雅史は(まあ、いいか。死にそうになってはいないし)と放置した。そういうときに限って集中モードになっているので、そもそもあまり気にならないのである。  とはいえ七味のきいたみそ汁とご飯では集中が途切れるので、歓迎しているわけではない。どうすれば改善できるか、と考えた雅史は、寮食を諦め外食することにした。  つまり集中モードを維持することに主眼を置くなら、必ずしも寮にいる必要はないと考えたのだ。店舗で出されたものを食すれば、おかしなものをご飯にかけたりする余地もないだろう。さらになによりの利点は、そのまま同じテーブルで打ち込みできることである。  資料を拡げ、打ち込みしながら昼食も食えるし、自動的に水をついでくれる。藤枝が帰ってきて騒ぐこともなく、席を立つまで誰にも邪魔されずに作業を続けられるのだ。  一度やってみたら快適だったため、起きて(今日は集中来そう)などと思う日はファミレスや喫茶店へ行くようになった。  なぜこうも打ち込みに時間を割くか。  それは、最初考えていた構成に全体的な修正を加えているためだ。  中世の洗髪に興味を持ったことから発して、民俗学や言語心理学をひもといた雅史は、少し調べただけで、今まで綿密に組み立てていると思っていた多くのことが穴だらけだったことに気づいた。それらの修正を入れると、芋づる式に付随する複数箇所にも変更が必要となり、やってもやっても終わらない。  そうして新たに蓄えた知識から改編されていく世界は、それに見合うアイディアを次々産みだし、エピソードがどんどん増えていく。  むろん連載の執筆もしなければいけないので、時間はどれだけあっても足りなかった。のっているときほど作業密度が増すので、そういうときに集中してやってしまいたい。  三日に一度は集中して書き、あとは講義も受けるし、同室のふたりや他の連中の観察もする。やはりみな良いネタをくれるので、そこからインスピレーションが来ることもある。彼らと行動を共にする時間を失うわけにはいかない。  それに加えて、雅史は民俗学、言語心理学への興味がどんどん深まっていた。  七星に学びたいと思える教授が揃っていることを知り、年次が進んだらそのゼミへ入りたいと考えたが、先輩に聞いてみたところ、かなり狭き門らしい。ゆえに前期後期の試験で結果を残す必要があった。やるべきことが多すぎて、毎日3~4時間くらいしか寝ていない。  なぜか疲労は感じないのだが、やってもやっても終わらないことに焦燥は感じていた。 (まったく、なんで一日ってのは二十四時間しかないんだ?)  七味味のご飯だとか風呂で水が冷たかったとか、そんな細かいことなど構っている場合では無い雅史なのだった。  ほんの幼いころから、雅史はこうして自分のことだけを考え、やりたいことだけをやっていた。たまたまやりたいことの中に『知識を増やしたい』『理解力を上げたい』が含まれていたため勉強はできたし、成績が良くておとなしい生徒を学校は放任する。ゆえに雅史はいつも快適な孤高を保っていられた。  この寮に入って二日目で藤枝の言動にインスピレーションを感じ、観察するようになって、そこから常に行動を共にしていたのは、あくまで観察のため、キャラ収集のためである。  だが驚くべきコミュニケーション能力を常に発揮している藤枝と一緒にいると、自動的にいろんな奴の顔を見ることになり、望んだことなど無いが知り合いは増えている。賢風寮の一年生は百人少しいるらしいが、少なく見積もってもその過半数、さらに二年三年も入れれば膨大な人数が雅史の顔を認知しているわけで、ファミレスだと 「あれ橋田じゃん。なにやってんの」  などと勝手に同席する奴がいるのだ。  それは避けるべきだった。ゆえに、執筆場所としてファミレスを不適当と断じた。  といっても雅史はあまり店を知らないしウロウロ迷うのも時間の無駄だ。なので過去同室の三人で行ったところか姉崎たちと行ったいくつかの店の中で、長居可能で、資料を広げラップトップを置ける、と考えるとファミレス以外の選択肢はひとつしか無かった。  つまり表通りから一本入ったところにある、ちょっとレトロな喫茶店。 「コーヒー美味しいし、ホットケーキ最高」  と姉崎がみんなを引っ張って行ったところで、いかにも昭和な雰囲気の古い店だ。椅子もテーブルも傷あるし暗いし、わりといつも空いていて、長居するには都合が良い。  なのだが、通いはじめて三日目、白髪のマスターに「いいかげん困るんだよ」とため息まじりに言われてしまった。 「水替えに行っても目も合わせないし、追加オーダー聞いても答えないし」  しょっちゅう水を入れに来るので便利だと思っていたのだが、意図があってのことだったらしい。 「……はあ。すいません。ではなにか頼みます」  まして追加オーダを聞かれていたなど、まったく気づいていなかったので謝罪すると、またため息をつかれた。 「そういうことじゃなくてね、もうけなんて良いんだよ|僕《ぼか》ぁ。お客さんとおしゃべりするのが楽しいからこの店やってるの。なのに君、話しかけても無視するし。客がいないなら楽もできるけど、君がいると僕ぁ、ろくろく昼寝もできやしないじゃないの」  もう一度「すみません」と謝りつつ、雅史はコーヒーを追加オーダーした。  コーヒーを運んできたマスターに、もうけがいらないならなぜ店をやっているのか尋ねると、すぐに嬉しそうに笑顔で話し始めた。  コーヒー好きが高じて自分でも淹れ方や焙煎など研究していたマスターは、定年退職後、常連だったこの店を譲り受けた。それ以来、自分が美味しいコーヒーを楽しむこと、そしてコーヒーを楽しめる環境でいろんな人とおしゃべりするのが楽しくてやっているのだという。 「食べて寝て、楽しいことがあれば僕ぁそれでいいの。君なんて面白そうだから、話したくてたまらなかったんだよねえ」  いきなり上機嫌になったマスターを見つめ、雅史は(この人に事情を話すことによって得られるメリットはあるか?)と考え、判断した。  ある。  知ればこんな風に話しかけてくることもないだろう。この環境をキープできるのはかなり大きなメリットだ。なので雅史は、今現在の状況、仕事の内容について伝え、内密にしたいのだと頼む。マスターは嬉しそうに頷いてと胸を張った。 「そういうコトなら任せなさい。君の仕事については誰にも言わない」  そうして雅史は安息の地を得たのだが、ある日、雅史がココに入るのを見ていたやつがいたのだ。  そいつは座ってラップトップをひろげた雅史の横に立ち、「おいおまえ」とドスのきいた声をかけてきた。  目を上げると見覚えのある顔だったが、名前は覚えていない。 「こんなとこにいたのかよ。なにやってんだ?」  答える必要を感じず、雅史はラップトップに目を戻した。一瞬だって無駄にできない感覚に、常に苛まれているのだ。知らない奴とおしゃべりする余裕なんて無い。  すると頭部に冷たいものを感じ、前髪を伝って水が流れた。どうやらコップの水を頭にかけられたようだ。 「無視すんじゃねえよ!」  大きな声に、もう一度目を上げると、きつく眉を寄せ歯を食いしばったような、怒りの表情があった。 「メシにマヨネーズやソースかけてやってもツラっと食いやがるし、シャンプーずっと垂らしても水かけても平気なツラしやがって! なんだおまえ! 少しはめげねえのかよっ!」  なるほど。  続くとは思っていたが、意図的にやっていた人物がいるのなら、納得できる。 (そうかあ。……てことは、もしかして今、虐められてるのかな?)  そう考え、次の瞬間にわくわくした。 (イジメの被害者になるなんて、滅多にできない体験だ!)  その時雅史の目に浮かんでいたのは期待と喜びだったが、それを見た相手は、雅史がようやく少し表情を変えたことに少しだけ満足したようだった。 「ちょっと顔貸せよ」  うわあ、こんなセリフ、本当に使う人いるんだ。すごいなあ、次はなに言うのかなあ 「おまえ、なめてんじゃねえぞ。来いッつってんだから立てよ! おらぁ!」  大声上げるだけなんて芸がなさ過ぎる。もうちょっと気の利いたこと言えないかなあ。  ちょっとがっかりして、眉が下がってしまった。  それを見て相手はニヤリと笑い、雅史の二の腕をつかんで立たせ「来いよ! おらぁ!」と声を上げながら引っ張る。そのまま店を出て行こうとするのについて行くのを、マスターが何か言おうとくちを開いたが、雅史は手振りと表情でほっといてくれるよう頼んだ。  滅多にない経験なのだ。  こんなおいしいネタ、拾わないでどうする。

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