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47.事件がいっぱい
七月も間近なある日。
三階の水場、十九時近く。
急いでレポートを仕上げるため、彼は食堂へ行く時間も惜しんだ。カップ麺で済まそうと向かったのは三階の水場だ。共同のヤカンに水を満たし、湯を沸かそうとして
「あれ~?」
だが彼は怪訝そうな声を漏らした。ガスの火がつかないのだ。
片眉を上げつつ元栓を調べたが、ちゃんと開いている。なのになぜ火がつかない?
「ちょー待てよー。さっさと食って続きやんなきゃなのにー」
ぼやきながらカチカチとガスの火をつけようとしても、まったく反応しない。
「おー、どしたー」
通りがかりの工学部が声をかけてきた。
「ガスつかねんだよ」
「マジかー」
ガス台の故障かと確認し始めると、近くの部屋で「ヴグェ~!」押し潰されたような悲鳴が上がり
「なんだ?」
ふたりは作業放置して声のした部屋に飛び込む。そこには「グァ~ッ」叫びながら髪をかきむしっている奴がいた。
「しんっじらんねえっ!」
「どうしたっ」
「ネトゲ! 切れたんだよっ!」
ひっくり返った声に、それぞれの目から心配そうな色が一瞬で消え失せる。
「課金でもしてたか」
ため息混じりのツッコミに「だぁってよ~!」叫び続けるのを無視して部屋を出ると、声を聞いたのか、他の部屋からも出てくる奴らがいた。
「うちの部屋も切れた」
「ネットが?」
「そうだよ。レポートの資料漁ってたのに」
「てか、またコピペ編集する作戦かよ」
「うっせ」
隣の部屋でも、その隣の部屋でも、調べたところ3階のほとんどの部屋でネットが繋がらなくなっている事が分かった。全部を確認出来なかったのは、不在の部屋があったからだ。特に一年は一人もいなかった。
「てことは! 一年が回線切ったか?」
「許さん一年!」
毎年一度は不慣れな一年がケーブルを切って大騒ぎになるのだ。そう決めつけて拳を握るやつらを、工学部は苦笑で見つめ。のんびりツッコんだ。
「そうと決まったわけじゃねーだろ」
「なにやってんだよ施設部!」
が、ネトゲ廃人寸前が血走った目で詰め寄る。
「いや俺、部長とかじゃねえし」
工学部はヘラッと言い返した。彼は二年の大田原。実家が工務店の施設部所属である。
「レポート提出三日後だぜ? 間に合わなかったらどうすんだよ」
だがもうひとりにすごまれ、ギリギリになってネット漁ってんじゃねえよ、と思いつつ真顔を作った。
原因特定と修理は、施設部の仕事であることは確かだからだ。
そこで大田原は、まず一階の部室へ向かい回線状況を確認した。問題無く使える。念のため他の部室でも調べたが問題無い。娯楽室や玄関周りのWiFiも繋がる。一階は大丈夫。つまり回線自体の障害では無いと判断する。ということは寮内の設備の問題である。
報告を受けた部長の|太和田《たわだ》は施設部に招集をかけ、どこが繋がらないのか調査にかかった。チラッと(一年生が少ないな)と思いはしたが、気にしてる余裕は無い。
まずはそれぞれ、自室で繋がるか、そして周囲の状況も確認するよう指示を出す。それに従って階段を駆け上がるとき、大田原はガスがつかなかったことなど忘れていた。
ほぼ同時刻。
トイレの個室で数分の奮闘を終えた奴が、手の空振りと共にカランと音がしたところを見て思わず声を上げた。
「はあ!?」
個室の外で立って用を足していたふたりが文句を言う。
「変な声出すなよ! かかっちまっただろっ」
「うわ、きったね」
「つかどしたー」
「トイレットペーパーがねえ」
個室の中で呻くように言うと「予備があんだろ」軽い声が返った。
「それがねんだよっ」
ペーパーの補充は総括の一員である彼の仕事だった。メシ食う前に彼自身が確認し、確かに予備も置いておいたのだ。なのに無い。
「なんでだよ~」
だが嘆いている場合では無いのだ。このままケツ拭かずに個室を出るなど、できるわけないではないか。
「おいぃ~、頼む、ティッシュかなんか持って来て~」
やむなく個室の外から聞こえた声に懇願し、なんとかティッシュを持って来てもらって拭いたものの、ここのトイレは古くて詰まりやすい。ティッシュなんて流したら一発だ。やむなく彼は、排泄物のついたティッシュを新たなティッシュで包みまくって、なんとか個室を出たが、怒り心頭だ。
「誰だよ、ペーパー盗みやがったの!」
腹立ち紛れに怒鳴りつつ、まずはティッシュをビニールに放り込んでくちをきつく縛った。
同じ頃。
数日続いたこぬか雨のせいで、空気はじめじめとして蒸していて、食事を終えた多くが早くサッパリしたいと浴室へ向かったが、洗濯機の並ぶ洗面室に人だかりができていることに疑問符を飛ばす。そしてすぐに事態を理解し、不満げな声を上げた。
「聞いてねえぞ?」
脱衣所に入る扉のすりガラス部分に『立ち入り禁止』の紙が何枚もベタベタ貼られていたのだ。
以前、ボイラーの故障で風呂が使えなかったことはあるが、そのときは執行部から全寮に周知された。今回はそんな話は一切無かったし、そもそも貼り紙も『故障』ではない。
ノブに手をかけても鍵がかかっているらしく開かないのに、中には灯りがついていた。貼り紙があるため子細には分からないが、人が動いているような気配もある。
「おい、開けろよ!」
ただでさえベタ付く身体に不快を覚えていた為、その声は次第に強く大きくなった。
「聞いてんのかよ!」
『あ~~、すいませ~ん』
中から声が聞こえたので、声も動きもいったん止まる。
「誰だよ?」
「つうか開けろよ」
『すいませ~ん、ちょい掃除が長引いてて~』
掃除してるってことは、中にいるのは一年だ。そこには二年と三年しかいなかったため、一気に怒鳴り声が上がった。
「長引き過ぎだろ!」
「なにやってんだよっ」
「とろ過ぎ! すぐ開けろ!」
怒鳴り声が響くと、中から申し訳なさげな声が返る。
『今入っても逆に汚れるし、ひっでー臭ぇーし』
『もうひっどい汚くて~、洗っても洗ってもキレイになんないんす』
『脱衣所もきたねーんで』
なんとなく不審が無いわけではない。
だが声が返ったことで、騒ぎはひとまず収まった。そしてとにかく汗を流したいという欲求を解消する方に意識を向けたひとりが言った。
「あ~もう、しょうがねえ。身体拭くだけでもいいや」
洗面所へ向かい、湯の蛇口を開いて上半身を脱ぎ始めるのを見て「なーる」などと言いながらもうひとりも脱ぎつつ洗面所へ向かう。
「アタマくらいなら洗えンな」
何人かが同じように上半身を脱ぎ、タオルを濡らした。ボイラーが古いので、少し待たないと湯は出て来ない。いつもそうなので、一番に使うときは少し出しっ放しにしておく。
のだが────
「冷て!」
「えっ? なんでお湯にならねんだよっ!」
中のひとり、施設部の奴がそこを飛び出し、建屋の横に設置のボイラー小屋へ行ったが、鍵がかかって開かない。
「マジかよ?」
「俺カギ取ってくる!」
走り去った施設部を見送る者がいた一方、怒りを再燃させる者もいた。
「コラ一年! お前らなに考えてんだっ」
ドアを叩きつつ怒鳴るのを見て、周囲も怒りが再燃した。今にも壊しそうにドアを叩き、怒声が続く。
「なんなんだよっ!」
「おいなんか言えよっ!」
だがさっきまで答えていた声は返ってこない。
「ざっけんな!」
叫ぶ者は声が大きくなっていき、ドアを叩く者はその力が強まっていく。
「ガラス割れるぞ」
「知るかっ!」
貼り紙を剥がし、少しでも中の様子を見ようとしたが、中からもなにか貼ってあるようでまったく分からない。ドアや壁を蹴る者も出始めた。
「やめろよ、壊したらマズイって」
「うっせ!」
「あ~、やってらんね」
冷たくても良いと髪を洗い、身体を拭く者は、「勝手すんな」と横やりを入れられ「自由だろ!」とわめき返し、水を飛び散らせる。
「わ、冷てっ!」
「やめろ!」
洗面所は騒然となり、その騒ぎは娯楽室や食堂まで響いた。
廊下の配線。各階にあるサーバー。
施設部員は手分けして確認に奔走し、三階のサーバー室でケーブルがごっそり抜けているのを発見した。これにより三階と四階の殆どでネットが使えなくなっていたのだ。慌ててケーブルを元通り挿し込んでいく。狭くて暗いサーバー室の中でぎゅう詰めになっての作業。しかも適当に挿せば良いというものでは無いので、設計図片手で慎重に繋げていく。
ケーブルは自然に抜けるようなものでは無いし、もちろんうっかり足を引っかけるような設置はしていない。つまりこの状態は―――
「……誰かが抜いた、てことか」
「つうかなんでこんなこと」
作業を続けながら、悔しげな低い囁きが漏れた。
この古くてボロい寮にネット環境を整備したのは施設部である。
設置は十年ほど前なので、ここにいるメンバーが設置に関わったわけでは無い。だが当時、ひどく苦労したと聞いているし、現在進行形で改善のために動いている。停電時も使えるような設備まで入れて、当番を決めて確認するなど、保守にも余念はない。
そしてサーバー室の鍵は施設部室にあり、そのキーケースは厳重に施錠されているのだ。つまりこんなことができるのは施設部員、それもサーバー室保全担当だけだ。いったい誰が……そんな思いを押し殺して作業を続ける中、空気を変えようとぼやくような声を上げた者がいた。
「くっそ、どうなってんだよ。風呂も使えねーし」
「風呂? なんで」
「掃除中だ、つって入れねんだよ。洗面も水しか出ねえし」
「え? そんな報告受けてるか?」
「いや、聞いてない」
なにかが起こっている。
そう思った太和田は、総括部長、唐沢に声をかけた。ガスが使えないという報告もあって、設備に問題が起こっているが理由が分からないという焦燥も覚えている。こういうときは、執行部で一番気安い相手に話してみることにしているのだ。唐沢はチャラいわりに安定してるので良く声をかける。
しかし眉尻下げた唐沢は、総括でも小さな問題が頻発していると言った。
トイレットペーパーが盗まれた、枕カバーの替えが消失した、そんな取るに足りないような事ばかりだったが――――不穏な予感に二人の表情は暗くなる。
「風呂が汚えとか、聞いてねえよな?」
「うん、そんな話はないよね」
話しながら階段を降りて、まず現状確認に洗面室へ向かったが、分かったのは
「オイこら一年!」
「汚くていいから開けろよ!」
そこが混沌となっていることだけだった。
間断なく上がる怒鳴り声、ドアや壁を叩いているらしい音も響いている。
おりしも二十時、いつもなら風呂が一番混む時間帯である。
ここはコインランドリーが二つ入るほどの広さなのだが、洗濯機が並んで壁一面は洗面スペースになっている。さほど余裕のあるスペースでは無いのに、男ばかりぎゅう詰めだ。汗だくになった者は脱出したいようだが、入ってこようとする奴がいるから身動き取れない。
「風呂は入れねえから! いったん出ろって!」
太和田と唐沢が呆然とそれを見つめ、どうにもならんと視線を交わした、そのとき
「静かに!」
大音声が響き、暴走気味になっていた一部が動きを止める。思わずビクッとしてしまった二人の部長が振り返ると、宇和島が腕を組んで立っていた。部長の背後には保守のメンバーが並んでいる。
ガタイの良い奴らがどやどやと進むので、唐沢と太和田はとっさに廊下の壁に張り付いて道をあけた。
「落ち着け」
「とにかく全員出てこい」
保守の連中が問答無用に娯楽室へ引っ張って行き、ひとまず騒ぎは収まったが、宇和島はきつく眉を寄せていた。
「まったく状況が分からん」
呟いた宇和島は、壁に張り付いている優男二人をじろりと見た。
全員が体育会系の部活をやっている保守は、そこでシャワーなり浴びてくるので、あまり浴室を利用しない。ゆえにこの状態が理解できていなかった。
「なにが起こっている」
宇和島に聞かれて、唐沢は苦笑と共に肩をすくめる。
「なにがなんだか」
「俺らも知りたいって感じ」
ため息混じりの太和田の声を聞いて眉を寄せた宇和島は、執行部を集めるよう命じた。すぐに保守の何人かが階段を駆け上がっていく。
「面倒ごとはあいつらの仕事だろう」
宇和島はそう呟いて短い髪をガシガシとかき、二人の部長は肩をすくめたり苦笑したりして、それぞれの部室へ向かった。
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