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56.夏休みの情景4 いつもの姉崎

 バタンと閉じたドアに背中預けてゼイゼイ息してると「あれ~?」脳天気に笑ってるような声が聞こえた。反射的にカッとして目を上げる。  部屋出たときはなんか集中してた姉崎が、ゆったり座ってコーヒー飲んでた。 「どしたの、怖い顔して」  このところイラつくことが少なくなってた姉崎のニヤケ顔が、めっさカンに障る。  けど別にコイツが悪いってわけじゃねーし当たるのも違う気がして「……なんでもねえ」とか、奥のバーカウンターに向かいながら言ったけど、はあ、とため息は漏れた。 「そうは見えないけど?」  ニヤニヤしながらスタスタ近寄ってきた姉崎は、いつも通り偉そうで、やっぱイラッときて、「うるっせー!」思わず怒鳴る。 「なんでもねえっつってんだろっ!」 「髪、濡れたままじゃない」  手がスッと髪へ伸びてきた。 「まだ雫が垂れてる。Tシャツも濡れて……」  パシッと手を弾いたのは、無意識だった。  ハッとして見返したが、姉崎は驚きもせずニッと笑みを深めたかと思うと、次の瞬間、手首つかまれてて、どんっと壁に押し付けられた。勢い余って肩強く打って、またイラッとして睨み返したら姉崎の顔が間近にあって────  こぶしが、その頬を殴りつけてた。 (あ、やべ……)  思わずだった。  殴った勢いで顔が逸れたままククッと笑って、手を放した姉崎が横目でコッチ見る。 「な~に、意識しちゃって」 「はあ? バカにすん……」 「だってちょっと触るなんて」  罵声を続けようとして笑い混じりに返され、思わず口を噤む。 「僕いっつも、だよね?」  ────そうだよ。  姉崎は髪どころかどこでもベタベタ触ってくる。つかハグしてほっぺチューまでする。最初は真剣に「やめろ」とか騒いでたけど、しょっちゅうやりやがるから慣れてきて、今も騒いではいるけど本気じゃない。  なのに今、過剰に反応しちまったのは、マティスさんに触られた感じが残ってたからだ。裸の肩や胸をなぞった指先の感触がいっきに蘇って、ゾワッと肌が粟立つような感じがしたと思ったら殴ってた。 「わりぃ、ちょい……」  言いながら見たら姉崎はいつもの笑みだったけど、頬は少し赤くなってて、けっこう本気で殴っちまったから後から腫れるかも知んない、とか思ってドッと汗が出た。 「わりい」  ぺこんと頭上げ、もっかい謝る。  ずーん、と自己嫌悪に襲われて、 「ああ、くっそ!」  髪をかきむしりつつ怒鳴っちまった。  くそ、ちょい触られたくらいで、なにビビってんだよ俺。なんてコトねーじゃん。なのにツレ殴るとか、うーわ最悪。  姉崎は、ふふふ、と笑って「そっか~」とか呟いてる。 「びっしょり濡れたままで帰ってきた。しかも大慌てで。情緒不安定は~、まあいつものことだけどねえ……ふうん」  なんか言ってるけど、とにかく脳裏にちらつくマティスさんのおっかないウインクを散らしたくてブンブン首振ってた。ンでもあんま効果ない。 「つまりプールに行ってたんだね?」 「……だからなんだっつんだよ」  ぶっきらぼうに言いつつバーカウンターへ進むと、背中から声が追っかけてきた。 「ギリシャ人でしょ」 「ぎ……?」  振り返ると、腕組みした姉崎が片眉上げて首を傾げ、くちの片方だけで皮肉な感じに笑ってる。 「ホラ、暗めの金髪でくちひげあるやつ。背はそんなに高くなくて、胸毛でマッチョでヘビーな」 「な、なん……」  言い返そうとしたけど、声は途切れた。当たってる。それってまさしくマティスさんだ。 「あいつ、ずっとこっち見てたしね。ちょっと話したとき僕狙いかと思ったのに……藤枝だったかあ。ちょっと面白くないな~、そっか~」  言いながらニッと笑った顔は、目の底が笑ってない、怒ってる笑顔だ。 「ねえ、なにされたの」  低い声と探るみてーな目つきに、なんとなく焦って、ヤバイヤバイ、平常心平常心、とか思いつつ、妙に怖い笑顔の姉崎に問い詰められ、結局全部吐いた。しゃべってて自分で情けなくなったけど。 「触られて逃げたわけね」  とか笑われて、負けた感ぱねえ、と思い下向く。くっそー。  なんて思ってたら姉崎は電話とって、いきなりすげえ怒った声出した。 「ちょっと、下のプール、会員制で安心って言ってたよね?」  どうやらフロントにかけてるっぽい。 「僕の友達、ギリシャ人にセクハラされたんだけど、どういうこと?」  顔笑っててその声って、怖えよおまえ。 「どんな会員制なの? ……知らないよ、そんな理屈。────ああそう、いいよ分かった。それなら……いや、すぐ引き払うから、責任持って他探して。同じグレードで……そう、八月末までいる予定だったね。……だって友達呼べないホテルにいてもねえ。当然じゃない?」  いつもに増して偉そうな感じ。 「知らないって。そっちで都合つけなよ。……キャンセル料? 面白いこと言うねえ? ……知らないよ、もう二度とここ使わないし。……だから知らないって。後はコマに言えば?」  ガッチャン電話切りやがった。  コイツ使えるかも、とかマジちょびっとだけど思って、いやいやいや、と首振る。 「おまえ、んなコト言って良いのかよ? つか俺ならゼンゼン、イイつか平気つか、その」  ナニ言ってるか自分でも分かんなくなってたら、姉崎がこっち見た。  うわ笑ってねえ! 初めて見たこんな顔! なんとなくビビってたらいきなり顔近づいてきて────  キス!? なに!?  わけ分かんねえけど、めっちゃディープな感じでキス!  後ろに下がっても追っかけてきて離れない! ドスンって倒れ込んじまった一瞬、唇離れたけど、また押し付けられ、ソファの背にアタマくっついた状態で、くちの中で舌が大暴れ! でもさっき勢いで殴ったから、今度はやっちゃダメだって言い聞かせて、握ったこぶしを肩に当てて押し返そうとしてんだけど、コイツ無闇に力強いってか動かなくて!  間近の目が少し伏せられて、キスしながらこっち見てる。  こっちも見た。つか睨んでやった。  フッと抑えてた力が抜けて、目一杯の力で押し返す。 「おまえ俺のこと好きなのかよ!?」 「まさか」  鼻で笑うみたいに速攻言って、どさっとソファの隣に腰落とし、そのまんまタバコ吸い始めた。 「殴られっぱなしとかあり得ないだろ」  ちょいニヤッと言った。うん、いつもの姉崎だ。  なんかこっちも力抜けた。まあ殴ったわけだし、お互い様っつか、分かんねえけど、なぜか怒る気になんねえつか。  並んでソファに座った状態になって、なんとなく黙る。気まずい。 「僕狙いだと思ってたからほっといたのにな」  チッと舌打ちの音と共に聞こえた声に「モテる自慢か」ツッコんだら「まあ無いとは言わないけど」鼻で笑われた。 「僕なら適当にあしらうからさ、ほっといても問題無いと思ったんだよ」 「あ~……。悪かったな、うまくやれなくて」 「ホントだよね。殴りもせず、ただ逃げるなんて、藤枝のくせにさ」 「うっせ! ビックリしたんだよ!」 「それって男だったから? ギリシャ人だったから?」 「う~~~、両方、かな」 「じゃあ、さっきのキスで免疫付いた?」 「知るか! おまえなんてただの姉崎だ」 「なにそれ」  クスクス笑いやがったけど、本当だ。だって姉崎は姉崎だ。男だとか関係なく、ちょいむかつくツレってだけだ。 「ていうかさあ、藤枝はいろいろ自覚しなよ。面倒くさいから」  ほんっといつもの姉崎だ。やっぱりむかつくけど、気まずくは無くなった。 「……つかおまえ、キスうまいな」 「なにいきなり。したことないとか言わないよね?」 「言うか! あるよ、そんくらい」  すると姉崎がため息つきながら、ぼそっと言った。 「ねえ、健朗って、いつこっち戻るの」 「知らねえ」 「マジで? なんで知らないの」 「聞くの忘れたんだよ」 「電話で聞けば良いじゃない」  当たり前みたいに言うから、カッとして「聞けるかよ!」怒鳴りつけた。  だって聞こうと思って携帯手にとって、彼女か! とか思ってやめてつーのを、実家でさんざん繰り返してたのだ。ホテル来てからも、ひとりでそんな状態になってはいたのだ。  なんて考えてたら「あ、健朗?」とか横で言うから、瞬速でそっち見る。てか携帯でしゃべってるし! 「いま実家? いつこっち戻るの? ていうかさあ、藤枝が面倒くさいから早く来なよ」 「おまっ……!! なに言い出すんだよッ!!」 「聞こえた?」  うーわ最悪! パニクりつつ「黙れ!」とか言いながら携帯奪おうとしたが、すばしっこく逃げやがるから、部屋ん中でおっかけっこ状態。 「なんか直接聞けないとか乙女なコト言うわりにジリジリしてて、面白いけど、だんだん面倒になってきちゃって。健朗いたらおとなしくなる……」 「ばっか!」  なんとか携帯奪って怒鳴ったら『……藤枝か』聞こえた低い声。気づいたら携帯耳に当ててた。 『藤枝か』  丹生田だ。丹生田の声だ。 「……うん」  なんか、胸の奥が熱くなって、なんも言えなくなった。 『明日から剣道部の合宿だ。盆前に終わる。その後寮に戻る』 「あ~……、そうなんだ? え、んじゃ十三日とか?」 『そのつもりだ。すまない、言っておくべきだった』 「いや! んなコトねえよ! 大丈夫!」 『そうか』  顔が浮かんだ。  きっと照れたみたいにちょっと笑ってる。 「うん! あの、合宿頑張れよな!」 『ありがとう』  電話切れたけど、携帯耳に当てたままちょい放心してたら、姉崎がひょいっと取ってって、ハッとして見たらニヤニヤして携帯振ってた。いや、奴の携帯なんで、当然つか、いんだけど。 「良かったねえ。じゃあ十三日までホテル生活楽しんできなよ」 「え? だってココ引き払うんじゃねえの?」 「しないよ、面倒くさい。ちゃんと筋は通してもらうけどね」  いつのまにかニコニコ上機嫌になってる姉崎に、「スジねえ」とか言いながら、なんかニカッと笑っちまったのだった。

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